睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□悠久なる大地
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 麋威は、父母のみならず一族の期待を一身に受け、幼い頃から明朗な論を為し、弓馬術でも父に比肩するとも謂われる腕を持つまでに成長した。劉備が漢中王となった年に趙雲の娘を娶り、のちに照という子を授かった。麋竺が病に倒れた折には、その代役を務めることもあった。
 現在は宮中にあり、虎賁中郎として禁軍の一部隊を率いていた。
「さて、早速聞く。そなた達の来意だが……」
 座に就くなり、麋威は本題を切り出した。
「はい。我らは東海にある長の命により、やって参りました者です」
 常に先頭に立つ長身の若者が答える。
「我らは、麋竺様の身に余るご厚恩を受けながら、お亡くなりの際には……、何一つ報いることできず……」
 思わず涙が込み上げ言葉が詰まる。他の二人も同様、俯いて涙を堪えている。

 彼らの話によると……。
 麋竺が徐州を離れた後に生まれた彼らは、当然、麋竺本人とは面識がない。
 だが、何代も麋家に仕えてきた大人達から、幾度も幾度も麋竺の話を聞かされて育った。その様な環境で育った子供達は、次第に麋竺に畏敬の念を募らせ、伝説まで作り上げていった。
 ある時、麋家の邸宅が火事になった事があった。実際は大したものではなかったのだが、天帝の命で麋家を焼きに来た火の神が、麋竺の誠実な人柄に感心して財産は失わずに済んだ、とか、女の幽霊の願いを聞いて墓を作り直して改葬してやったら火を消して貰えた、とかいう実に荒唐無稽な話が後世まで語り継がれることになる。
 やがて時が流れ、麋竺が失意の内に死去したという報せが東海に届いた時は、それはもう大変であったのだという。幾日も哭き続ける者、哀しみの余りに病を得る者、殉じようとする者が後を絶たなかった。
「そうか……。それほどまでに父上は皆に慕われていたのだな……」
 麋威は熱くなる目頭を押さえつつ、彼らの亡父への想いを聞いていた。鄭氏も崔翁も、人目を憚らず涙を流していた。
「父上っ……」
 麋威の背後に控える若者が、堪らずに涙声を詰まらせる。目鼻立ちが、どことなく麋威に似ている。
「尚、父上は我らの誇りだ。その名に恥じぬようにせねばな……」
 麋尚、字を公宗。麋威の異母弟である。ちなみにその母、李氏は夏風邪を拗らせて臥していた。
 若者たちは、異母兄弟の姿から父親の麋竺の姿を想像して涙を溢れさせ、平伏してこう言った。
「東海の者を代表し、我らの想いを麋竺様の墓前へお伝えに参りました」

 翌日。麋威と麋尚の兄弟は、数名の従者を随え、成都が一望できる、とある小山にやってきた。もちろん、その従者の中には東海の若者三人もいた。
 やがて立派な石門が見えてきた。
 その下から真っ直ぐに整備された石畳の道が延びている。
「この先は、先帝の御陵だ」
 馬を降り従者に預けると、麋威はその参道を奥へと歩き始めた。
 少し歩くと、正面に拝殿らしき建物が見えてきたが、先頭を歩く彼は脇道へ逸れていく。三人は顔を見合せていると、麋尚が言った。
「父上は、今もなお、先帝のお側近くに居られるのだ」
 劉備は、麋竺の死を悼み、自らの陵墓として用意していた場所の一角に、麋竺を埋葬させたのだという。
 劉備の眠る恵陵の手前、東側の視界の開けた場所に、まるで大きな陵に侍るように、その墓はあった。
 墓碑には確かに「安漢将軍麋子仲」の名が刻まれている。
 建国の功臣の墳墓とも思えぬ、小さな塚。最期まで自らを罪人として責めていた麋竺の遺言で、簡素なものになったのだという。
 だが、他の誰よりも主君に近いこの場所で、麋竺は静かに眠っている。
「あれは?」
 若者の一人が目を向けた先に、おおよそ墳墓にはない、変わったものが見える。小さな塚の傍らに、それに釣り合わせたかのような、小さな池が掘られていた。生前、好んで睡蓮の花を愛でていた夫のため、鄭氏が造らせたものだ。
 噂ではあるが、麋竺が睡蓮を好んだのは、劉備に嫁ぎながら若くして没した、彼の最愛の妹・玲蓮を重ね合わせていたとも謂われていた。
 様々な捧げ物を持った従者達が、墓前に次々と手際よく供えていく。それらが済むと、麋威は墓前に拝跪し、頭を地に付けるように礼をする。その隣で、弟の麋尚もそれに倣う。
「父上。不肖の子・威、今日は尚と共に、珍しい客人を連れて参りました。東海より参った若人にございます」
 振り向いた麋威に促され、後ろに控えていた三人は、兄弟と場所を入れ替わり、形式通りの拝礼をする。
「我ら老齢の長達に代わり、麋竺様よりお受けした多大な恩遇のお礼を申し上げに参りました」
 二人、三人と、彼らは交代で感謝の言葉を延々と連ねていく。
 その言葉を聞きながら、麋威と麋尚は、父の在りし日をそれぞれ思い出していた。
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