睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□名に込められた想い
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 時は後漢桓帝の御世、延熹七年春。
 春節を迎えて間もないこの日、麋家の当主である麋景は、早朝から苛立っていた。
「まだか? 報せを受けて大分経つが、まだ生まれぬのか?」
 かれこれ昨夜から少なくとも半日は待っているだろうか……。
「兄上、少しは落ち着きなされ。ここで喚いていても詮ないことだ」
 彼の弟、麋霍と麋豹が声を掛けて宥めている。
「我ら男は、座して待つ他はありますまい」
「それはそうだが、どうも落ち着かぬ……」
 右往左往する麋景。
 かねてより身重の妻が昨夜、産気付いたのだ。
 ──待つこと更に数刻。
 待ちに待った報せを伝えに、侍女が息を切らせて駆け込んできた。
「旦那様! お生まれになりました! わ、若君にございますっ!」
 屋敷中が歓喜に沸いた。
「それは重畳。兄上、おめでとうございます。麋家もこれで安泰ですな」
 叔父となった二人も安堵の表情を見せる。
「そうか! すぐに見に参るぞ」
 麋景は広い屋敷を子供のように駆け出し、妻の部屋へ向かった。
 霍、豹の兄弟は、長兄のはしゃぐ後ろ姿を複雑な思いで見送る。
「なにしろ、あんな事があったばかりだ。兄上の喜びようは仕方あるまい……」
「あぁ、麋家にとっては、これでよかったのだ。父上の言われるようにな」

 妻の部屋が近付くにつれ、赤子の泣き声が次第に大きくなってくる。すれ違う使用人達の祝辞も耳に入らぬ様子の父親は、一目散に妻の傍らへ。
「瑠玉、大手柄だ!」
「敬英様……。ありがとうございます」
 まだ汗だくで横たわっている妻の顔の汗をそっと拭い、労いの言葉を掛けた。
 王瑠玉。東海国郯県の王氏の娘で、麋景に嫁して三年になる。
「それで、我が子はどこだ?」
「若様は只今、湯浴みをなさっております。しばしお待ち下さいませ」
 父親の問いに侍女が答える。
 程なくして、赤子を取り上げた産婆が、刺繍の施された布にくるまれたその子を抱いて戻ってきた。
「さぁさ、奥方様。元気な若様でございますよ」
「おぉ、どれどれ……」
 両手を伸ばして受け取る気満々の麋景をよそに、産婆は母親となった王氏の胸に赤子を抱かせてやった。
「まずはお母上に抱かれるのが当たり前。旦那様は後になさいまし」
と、ピシャリと父親の手を打つ。
 この産婆、麋景も取り上げたという程であるから、かなりの高齢。相手が当主であろうが容赦しない。
「むぅ……。手厳しいのう」
 打たれた手の甲を擦りながら、妻に抱かれた我が子を覗き込んだ。
「ちと小さくはないか? 朗輔(麋豹)の子は、もう少し大きかったような気がするのだが……」
「確かに少しばかりお身体は小さいですが、立派な産声を上げられました故、ご心配には及びませぬよ」
 心配する父親に産婆が答えた。
「あんなに元気に泣いたのですものねぇ、坊や。さ、お父上にも良く聞かせて差し上げなさい」
 赤子が王氏から産婆へ、そして麋景に手渡される。腕の中の小さな息子は、身体に似合わぬ大きな産声を上げて疲れたのか、今はすやすやと小さな寝息を立てていた。
「おぉ……、よしよし。確かにお前の声はよう聞こえたぞ。さて、お前はどちらに似ておるのかのう……」
と、父親が顔を近付ける。
 するとそれに反応したかのように、突然赤子は火が点いたように泣き出した。壊れそうなものを恐る恐る抱いているのが伝わったらしい。
「お、おいおい……。どうすればよいのだ?」
 麋景は慌ててあやしてみるが、全くの逆効果で、赤子はいっそう声を上げる。
「敬英様、お貸しくださいな……」
 仕方なく母親に委ねると、赤子は正直なものでピタリと泣き止んだ。
「さぁさ、旦那様は大旦那様にご報告に参られるのでしょう? 若様はお乳の時間でございますから」
「お……、う、うむ。そうか」
 体よく産婆に追い出される格好になった麋景は、反論も出来ずに部屋を出るしかなかった。

「……生まれたか」
「はい」
「どちらだ?」
「お陰様にて男子にございます」
 寝台に横たわる老人の前で、麋景は畏まって拱手している。
 老人は麋景の父、麋渾。齢七十一になる麋家の前当主である。
 その会話は実の親子とはとても思えぬ、他人行儀で事務的なものだった。
「名は?」
「名は……」
 赤子の名を聞かれ、麋景は口ごもった。
「どうした」
「実は、まだ……」
「決まっておらぬのか」
「……はい」
「麋家の男子は代々父親が名付けるものだ。早々に決め、ご先祖の霊廟に報告せよ……」
「はい」
 老いた父の威圧的な声に、麋景はただ返事をするだけ。
 わずか一年……。その短い間に、親子には深い確執が出来てしまっていた。
「……まだあの事を恨んでおるのか」
「……」
「あのような小娘に(たぶら)かされた己を恨むのだな」
「それは……」
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