睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□春華秋姫
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 まこと、人の世の(えにし)とは何とも奇しきもの……。
 建安十年、秋空が見事に晴れ渡ったこの日の朝、麋竺に第二子となる娘が誕生した。
 『秋燐(しゅうりん)』と名付けられた娘は、実は鄭氏の子ではない。
 秋燐を産んだのは、まだ二十歳そこそこの李麗蓉という若い娘。以前より「妾は持たぬ」と、ひたすら鄭氏のみを愛していた麋竺が、なぜ今になって李麗蓉を迎えたのか。
 それこそまさしく人の世の奇しき悪戯に他ならぬ訳で……。

 話はこれより一年ほど前に遡る。
 劉備が荊州牧・劉表を頼り、新野に入って三年が経った頃、曹操は河北の袁紹を撃破、掃討の為に軍を率いて北上中のため、しばらく本格的に南下してくる様子はなく、劉備軍はその放浪の歴史においても貴重で平和な時を過ごしていた。
 勿論、麋竺も例外ではなく……。
「こらこら威よ、走ると危ないぞ」
「父上、早く早く〜」
 彼の前を手招きして走っている子は、鄭氏との間にようやく授かった嫡子で、名を威といい、三歳になる。父子の向かう先にあるのは、妻であり母である鄭氏の部屋だ。
「母上ぇ」
 麋威が元気良く部屋に飛び込むと、そこには既に彼より幼い先客がいて、うとうと午睡に入り掛かっていたところだったが、彼の大声に驚いて激しく泣き出してしまった。
「あらあら、びっくりさせてごめんなさいね……。阿威、此方に来て叔母上と阿斯に謝りなさい」
 やって来るなり母に叱られた麋威は、そのまま戸口へ逃げ出そうとしたのだが、
「威よ、母上の言葉が聞こえなかったのか?」
と、後から入ってきた父に腕を掴まれ、母の前に跪かされると、観念したように謝った。
「叔母上、ごめんなさい」
「お義兄様、お義姉様、よいのですよ。若様は私たちが来ているのを知らなかったのですから」
 来客は麋芳の妻・郭緑翆と、その息子の麋斯。麋威の声に驚いて泣き出した麋斯は数ヶ月前に生まれたばかりである。
 そして来客は、もう一人。
「伯父さま、威が鴦藍(おうらん)の弟弟をいじめた!」
 郭氏の背後からひょっこり出てきて麋竺に訴えたのは、麋芳の娘である鴦藍で、麋威とは同い年である。
「いじめてないもん」
「いじめたの!」
 父の背後に隠れて頬を膨らませる麋威を、勝ち気な鴦藍が小突いた。
「鴦藍、おやめなさい!」
 すかさず郭氏が叱るのだが、お構いなしに逃げる麋威を追いかける。
「父上ぇ〜! 鴦藍が頭叩いたぁ!」
 今度は麋威が泣き出す始末。
「やれやれ……。我が家も随分と賑やかになったものだ」
と、呆れ顔で言う麋竺は、どことなく嬉しそうではある。
「威よ、お前は男であろう、泣くやつがあるか。鴦藍、これから威と城内に来ておる曲芸師を見物に行くが、そなたも一緒に来るか?」
「行く〜!」
「えぇ〜。鴦藍も連れてくの?」
「なによ。文句あるの?」
 麋威があからさまに嫌な顔をすると、鴦藍が再び噛み付いてくる。
「二人とも止めぬか。……さて、邪魔をしたな、香鈴。郭殿もゆっくりなさるとよい」
 そう言って部屋を出るのだが、毎日がおおよそこんな調子であった。

 とある日の夜のこと、麋竺は満月を肴に、麋芳と酒を酌み交わしていた。
「なぁ兄者。緑翆から聞いたのだがな……」
 ポツリと呟くように麋芳が言った。
「ん?」
「義姉上が子を欲しがっておるとか」
「は? ……し、しかしだな」
 周知の通り、鄭氏は二度の流産の末にようやく麋威を授かったのだが、医者の見立てでは、年齢の問題も相重なり次子は見込めぬ身体であった。
「簡単な話だ。兄者が女を一人囲えば済む」
 麋芳は至極もっともなことを口にする。
「お前ではあるまいし……」
 これまで麋竺は、鄭氏だけを愛してきたため、今さら他の女を囲えと言われてもどうしてよいのか分からない。
「兄者は麋家の当主として、子を為さねばならぬのだぞ?」
「そんな事は分かっている……」
「なら、女の一人や二人抱けるだろう」
「あのなぁ、子方……」
 お前と一緒にするなと、口には決してしないが、態度にはあからさまに出ている。
 麋芳にしてみれば他人事であるから、完全に面白がっているのだ。
「ともかく、香鈴の話を聞いてからだ」
「なんだ、つまらん。早速、目利きの俺が新野の佳い女を紹介してやろうと思ったのに」
「結構だ!」
 麋竺は付き合いきれなくなり、座を立つと自室に向かった。
 そのまま彼は床に就いて休むつもりだったが、彼の足は自然と鄭氏の部屋に向かっていた。
「香鈴、まだ起きているか?」
「子仲様? はい……」
 麋竺が部屋に入ると、代わりに侍女が退出していく。
 麋威は既に隣室で眠っていて、鄭氏も結い上げていた髪を下ろし、床に就くところだったようである。
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