睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□悠久なる大地
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 ──益州成都。
 後主・劉禅の御世になって久しい蜀漢の都に、見慣れぬ旅の一行がやって来たのは、初夏の蒸し暑い日のことだった。
 それは、成年して間もないであろう若者三人。中原の商人が好みそうな装束に身を包んではいるが、交易品などを扱っている様子はない。かといって、魏や呉からの間諜の類にも見えぬ。
 故に、ここまで咎められることもなく辿り着けたのであろうが、道行く成都の人々は、近年では珍しい中原の人間に奇異の眼差しを向けていた。
 その奇異な一行は、とある邸宅の前で止まった。
「麋……将軍、のお屋敷はこちらか?」
 代表と思われる長身の若者が、門前で呼ばわる。
「いかにも、これは麋威様の邸宅だが」
 応対に出てきたのは、腰の曲がった老翁だった。彼は、奇妙な来客に何かを察したのか、彼らの身元を特に確かめるようなこともせず、
「若様はまだ出仕中でな、お戻りは夜中じゃ。さ、中で待つがよい」
と、あっさり一行を邸宅内へと案内した。
「おぬしら、東海の者であろう……」
 若者達を従え前を歩く老翁が口を開いた。その言葉に若者達は皆、相当驚いたようだ。
「な、何故それを……」
 軽く笑みを浮かべ、老翁はさらに言葉を続けた。
「もう一つ驚かしてやろうかの。おぬしらの父の名は……」
 老翁が口にした三つの人名は、自分達の父親の名に間違いなかった。
 老翁は、もはや開いた口が塞がらない様子の若者達を尻目に、声をあげて笑いながら事も無げに言った。
「そんなに驚くこともあるまい。儂とて麋家に永く仕えた身じゃ。おぬしらの顔を見れば父親ぐらいは判る」
 応接間と思われる大きな部屋に通された一行が、落ち着かぬ様子でしばし待っていると、見るからに高貴な老婦人が先程の老翁を従えて現れた。
「遠方から良く来てくれました。皆様は息災ですか?」
 まるで、我が子でも見つめるような穏やかな微笑み。それでいて、対する者に何も言わせぬ気高さも感じさせる。
「あ、あの……」
 一人がようやく口を開きかけると、老翁が口を挟む。
「控えよ。亡き先代、麋竺様の奥方様じゃ」
「で、では、大奥様?!」
 思わず平伏す三人に、婦人は冗談めかして笑う。
「あまりその呼び方は好みませぬ。麋子仲の妻、鄭香鈴と申します。あなた達の父の事は、子仲様やこの崔に聞かされておりましたゆえ、よく存じておりますとも」
 麋竺は当主となると、荘園ごとに信用の置ける小作人を長として選び、いくつか纏まった集落を造らせた。後に「麋家荘」と呼ばれる所であるが、実は麋竺が徐州を離れた後も、麋家はそのまま東海に残っており、従兄の麋靖が当主の役割を代行した。
 若者たちはその荘園集落の長の息子で、麋竺に仕えたという「崔」と呼ばれた老翁が知らぬ筈はなかった。
「あなた達の来意は、元信が戻ってから伺いましょう。戻るまでまだ間がありますから、旅の疲れを癒しておきなさい」
 鄭氏は下女達を呼び、手短に食事や沐浴の用意を命じると、再び奥の間に戻っていった。

 旅装を解いて沐浴を済ませ、久方ぶりに食した東海風の味付けをされた料理で、三人の胃が満たされた頃。
 表で馬の嘶きが聞こえたかと思えば、幾人かの使用人たちが慌ただしく表に向かって行く。
「麋威様のお戻りじゃ」
 崔翁がやって来て、主人の帰宅を告げた。三人は思わず身を硬くし、強張った面持ちで、老翁の言う『若様』を待ち構えた。
 しばしの後……。
 若様こと、この屋敷の主は、衣冠を替え、鄭氏と崔翁、さらに若者をもう一人伴って現れた。
「東海から来たというのはお前達か。随分と待たせて済まぬな」
 澄んだ流れる様な声色に、三人は雷に撃たれたように平伏した。
「畏まらずともよい。私も、まだまだ父の足許にも及ばぬ若輩者だからな」
 彼らにとっては初めて見る主家の当主、無理からぬことだ。
「若様はおぬしらと対等に話をしたいと仰せじゃ。顔を上げるがいい」
 崔翁に促され、三人は恐る恐る顔を上げた。
 麋威、字は元信。彼は劉備が劉表を頼り新野に移った頃に生まれた。崔は『若様』と言うが、当年二十五歳である。
 麋竺には四人の子があったが、母を正室・鄭氏とするのは彼のみで、彼が生まれた後、鄭氏の要望で側室・李氏を迎え、一男二女を授かった。
 鄭氏は妊娠しにくい体質であったのか、第一子と第二子を流産していた。それでもなお麋竺は、側室を迎えることもせずにいたので、ようやく念願の嫡子を抱いた時の、彼の悦びようは想像に難くない。
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