睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□月夜の闇
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 闇の(とばり)がすっかり降りたある夜更け。
 小高い丘の頂に、一人の(おとこ)が眼下の館を見据え佇んでいた。
 周囲の闇に溶け込む黒い頭巾、黒い装束、そして腰帯には短刀が差し込まれている。
(衛士は正面に二人、裏に二人か)
 彼は、手練れの賊である。
 昔は侠者として郷里で勇名を馳せていたが、黄巾の反乱や相次ぐ都での政変に嫌気がさし、次第に道を見失い、遂には賊となり下がった。
 董卓によって焼かれた洛陽の都から冀州、兗州と渡り歩き、徐州のこの地にたどり着いたという訳だ。
(抱える財の割に、入口の守りはこの程度か。他愛もない……)
 眼下に見える館は、徐州では知らぬ者とてない豪族の大邸宅だった。
 不意に辺りが明るくなる。雲に隠れた月が姿を現し、漢に柔らかな光を降り注いだ。
 右の頬に痛々しい傷痕を持つこの漢。名を郭推、字は季進という。
 郭推は、再び雲が己の味方になるのをじっと待った。それは程なくやってきた。彼の姿が闇に消える。
 素早く正門から程近い物陰に潜み、様子を窺う。
 衛士の一人は、槍を抱えたまま座り込んで眠りこけていて、もう一人も退屈そうに欠伸をしていた。緊張感の欠片もない。
 やがて暇をもてあましていた衛士が、郭推の隠れている物陰へと向かって来た。
 何も知らぬ衛士は、その前を通り過ぎようとした。
 その刹那──。
 彼は背後から腕を掴まれ、捻り上げられると、声を上げる間もなく首筋に硬く冷たい感触が……。
「安心しろ。殺しはせぬ」
 低い声で郭推は衛士に囁くと、彼の口を塞ぎ、首筋に当てていた短刀の柄を鳩尾に打ち込んだ。
 音もなく衛士が崩れ落ちる。郭推はそれを背後から両脇を抱え上げ、物陰に引き摺って行く。
 続けて門前に座り込んで寝ている衛士も同様に口を塞いで鳩尾に一撃を与えて気絶させた。
「さて……と」
 易々と侵入に成功した郭推は、丘の上から目星を付けた場所に脇目もふらず向かって行った。

「姉様、眠れないの?」
「ええ……」
 同じ頃、この館のある一室では、まだ年端もいかぬ娘達が、眠れぬ夜を過ごしていた。
 彼女達は范三姉妹といい、長女を蓬、次女を彪、三女を濬といった。
 彼女達の両親は、焼かれた洛陽から落ち延びてきた商人である。家族五人、宛てもなくこの地に流れ着き、路頭に迷っていたところを、この家の主に救われた。両親は県城で再起を図り、娘達は生活が落ち着くまで侍女としてここに預けられていた。
「姉様、夜風に当たってこない?」
「そうね。でもこんな時間に部屋の外を出歩いて、叱られないかしら」
「大丈夫よ。みんな眠っているもの、分かりっこないわ」
 次女の彪と三女の濬に促されるようにして、長女の蓬は起き上がった。
「音を立てないように、そっとよ……」
 慎重に扉を開け、三姉妹は忍び足でこっそり部屋を脱け出した。

 更に時を同じくして、眠れぬ夜を過ごしていた者がある。他でもない、この屋敷の主、麋竺だった。
 彼もまた、奥の寝所ですやすや寝息を立てる妻の傍らから脱け出し、自らの書斎で買い溜めていた書物に目を通していた。
 世話役の崔も就寝中のため、自ら火鉢に火を起こし、茶を淹れて一服することにしたのだが、茶葉の量を間違えたのか、口に含んだ茶はやたらと渋く、麋竺は思わず顔をしかめた。
「やはり崔が居らぬと、美味い茶は飲めぬか……」
 溜め息まじりに独りごちながら庭を見やる。
(ん……?)
 一瞬、彼に緊張が走った。庭先に動く人影を認めたからだ。
「……ふむ」
 だが、その緊張も直ぐに解けた。
「このような夜更けに、どちらへお越しかな? 小姐」
「ひぃっ……!!」
「おっと、済まぬ。驚かせてしまったな。私だよ……」
「麋竺様……!」
 人影の正体は范三姉妹。夜風に当たりに庭を歩き回るうちに麋竺の院へ迷い込んでいたのである。
「部屋に戻りなさい。そなた達はご両親からの大事な預かりものだからね」
 茶でも飲んでから……と言おうとしたが、あの渋い茶を飲ませる訳にもいかず、麋竺は言葉を飲んだ。
「麋竺様は、まだお休みにはならないのですか?」
とは、三女の濬。麋竺はにっこり笑って、
「では、小姐が寝たら休むとしましょうか」
と答えた。
「麋竺様、申し訳ありません。私が眠れぬと言ったために妹達が……」
 長女の蓬が頭を下げると、妹達もそれに倣った。
「さ、他の者に見つかる前に部屋にお戻り」
「はい。それでは、お休みなさいませ」
 素直に戻っていく姉妹を見送り、麋竺は再び書物に目を落とした。

 一方、屋敷に侵入した郭推は、その内部の迷路の様な構造に、いささか焦りを感じ始めていた。
 この辺りに財貨が隠されているのは、自身の勘からいって間違いない。だが、確証を得るような部屋の扉には、いまだ到達していなかった。
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