睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□華燭之典
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 徐州東海国朐県。県城のある大陸から海を隔てた郁州に、代々莫大な富を築いてきた麋氏の広大な邸宅があった。
 その邸宅の一室で、次代当主とその母親が、卓を挟んで会話している。
「い、今、何と申されました? 母上」
 麋家の若様、麋竺は眼を丸くした。
「竺、あなたに妻を、と申したのです。下邳の鄭翼様はご存知でしょう?」
 その母、王氏は、我が子の驚きをよそに、(はしため)が持ってきた茶を一口含む。
「鄭翼様と言えば、かの高名な儒学者、鄭玄様に連なるお方ではありませんか」
「えぇ。その鄭翼様のご息女を、ね」
「し、しかし……。父上はご承知されたのですか?」
 実は昨日まで下邳に出掛けていた麋景夫妻。
(上機嫌で戻ってこられたのはこの為か)
 麋竺は溜め息をついた。以前から、両親が下邳の名士と懇意にしていたのは知っていたが、まさか息子の縁談まで進めていたとは──。
「竺。あなたはこの麋家の当主となるのですよ。妻を迎え、子を為すのは当然のこと……」
「はぁ……」
「はぁ、ではありませぬ。それとも、まさか心に決めた女性(にょしょう)でもおられるのですか……?」
 母の鋭い問いに、麋竺は耳まで真っ赤になってしどろもどろ。
「そっ、そのようなことは決して……」
「ならば、異存はありませんね? ……婚儀はいつ頃にしましょうね」
 言いたいことだけ言うと、王氏は呆然とする我が子を置いて部屋を出て行ってしまった。

 ──翌日。
「あっはっはっはっ……。いや、すまん二兄。余りに可笑しくてな」
「繍、笑い事ではない!」
 従弟の繍が腹を抱えて笑う。
「しかし伯母上もなかなか強引な事をなさるなぁ……」
「兄者、なんなら俺が代わってやろうか?」
 実弟の芳も、ニヤニヤしながら口を挟む。
「馬鹿を言え。私の婚儀が済めば、芳、お前も同じ思いをすることになるのだぞ?」
「俺は別に困りはせんがなぁ……。今から母上に掛け合ってもいいぐらいだ」
「……。お前は気楽でよいな」
 得意顔の弟に、兄は呆れ返る。
「二兄は何といっても麋家の当主様だ。我ら愚弟共とは扱いが別格だもんな」
 繍の言葉に芳も頷いた。東海麋氏の長たる者の伴侶には、それなりの条件があるのだ。
「そもそも兄者は、妻を迎えるのが嫌なのか?」
「四弟、お前も鈍いなぁ。いくら二兄でもそれはなかろう。……と、なれば」
「なれば?」
 繍は人の悪い笑みを浮かべるが、芳の反応が今ひとつなので、そのまま言葉を続けた。
「二兄には既に心に決めた女がいる、ということだ!」
「おぉ、そうかそうか!」
 芳がやっと納得して手を叩いてはしゃぐ。
「で、誰なんだ、兄者。玲蓮の侍女か? それとも、あの厩番の張の娘か?」
「まっ、待て待て四弟。張の娘なら、この間俺が……」
「なにぃ?! 三兄、手を付けたのか? 俺も狙ってたのに……」
 勝手に女の話で盛り上がる二人。竺はすっかり呆れた顔で弟達の不埒な会話を聞いている。
 すると突然、回廊から声がかかった。
「お前達、ここにいたのか。子仲、伯母上に聞いたぞ。妻を娶るそうじゃないか──」
 一斉に三人が声の主を見やる。
「大兄!」
 現れたのは、彼らと同年代の従兄である。
 ここで、この場にいる四人の関係を整理しておく。
 まずは、この麋家の跡継ぎである麋竺、字は子仲。当主・麋景の嫡男で、先ごろ加冠したばかりの二十歳。
 その弟が麋芳。麋景の二男で十六歳。
 麋竺の叔父・麋霍の子、麋繍。麋芳より一つ年長の十七歳。
 最後に現れたのは麋靖、字は匡伯。麋竺のもう一人の叔父・麋豹の子。この世代での最年長者で二十二歳。麋竺が唯一、麋家の中で「兄」と呼ぶ存在であった。
 さらにこの下には歳の離れた麋靖の弟・麋永がいて、彼らは従兄弟ではあるが実の兄弟のように育った。
「大兄まで私をからかいに来たのですか?」
 竺はげんなりして、自らが座っていた上座の席を空けて従兄に譲る。
「おいおい、大兄までとはなんだ。折角祝辞を述べに来てやったのだぞ?」
 靖は、譲られた上座には就かず、空いていた席に腰を降ろした。
「大兄、二兄の想い人を知らぬか? 二兄ときたらなかなか白状せぬのだ」
 繍が身を乗り出す。
 竺は、ムスッとしたまま黙っている。
「なんだ。お前達、知らないのか?」
 得意気な顔をして靖が話に乗ってきた。
「だ、誰なんだ? なぁ、大兄。や、やっぱり張の娘なのか?」
 芳も身を乗り出す。
「それはお前だろ、芳。この前、伯父上の言い付けで、皆で小沛まで行っただろう?」
「行った」
 竺の顔から血の気が引いている。それをチラリと目視すると、靖はしたり顔をして言葉を続ける。
「駅舎に停まっていた馬車を覚えておるか? あれに麗人が乗っていただろう?」
「あぁー!!」
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