睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□蒲公英詩
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「よいか、お前の名は……『芳』だ」
 父親が嬉しそうに、胸に抱いた赤子に言い聞かせた。

 霊帝が即位した建寧元年早春。
 麋家に新しい家族が増えた。
 二ヶ月前、前年にはなるが、麋景の次弟・麋霍に男子が生まれ、今日また麋景に第二子となる男子が生まれたのである。
 麋霍の子は「繍」、麋景の子は「芳」と名付けられた。
 相次ぐ男子の誕生に、祝賀一色の麋家であったが、一人だけあからさまに面白くない顔をする者がいた。
「どうなさいました、若様?」
 乳母であり世話係である侍女の暎は、面白くないというのが一目で分かる表情をしているその幼子に声を掛けた。
「ううん、なんでもない」
 麋景の長子であり、次代の当主となる五歳の竺は、そう呟くと暎の手をぎゅっと握った。
 乳母として、彼をそれこそ我が子のように大切に育ててきた暎には、竺の気持ちは手に取るように分かる。
 要するに、嫉妬だ。生まれたばかりの小さな弟に、父母を奪われたような状況なのだから、無理もなかろう。
 弟の存在は、母の胎内に宿った時から理解こそしていたが、幼い兄は決して認めていた訳ではなかったのだ。
「竺、こちらへいらっしゃい」
 実母である王氏が竺を呼ぶのだが、竺は暎の後ろに隠れてしまって出てこない。
「竺、来なさい。お前の弟だぞ」
 父は、息子の複雑な心中など意にも介さず、重ねて名を呼んだ。
「若様、小若様に兄上としてご挨拶を……」
 暎が竺の自尊心を傷付けぬように、やんわりと促すと、ようやく幼い兄は、両親と弟の前に進み出てきた。
 出産直後で牀に横たわっていた母は、歩み寄ってきた長子を、疲れきった身体を起こして抱きしめた。
「……母上、もう痛くないの?」
 小さな声で竺は言った。
 実は王氏が産気付いた時、彼はその場に居合わせており、陣痛の痛みに耐える母親を彼なりにずっと心配していたのであった。
「もう大丈夫ですよ。さ、あなたの可愛い弟を見てやってちょうだいな」
 先程まで父の腕の中にいた赤子は、今は暎の腕に抱かれていた。それも竺にしてみれば面白くないのだが……。
「まぁ、なんて可愛らしい。さ、若様、弟君ですよ」
 暎は両膝を着いて、赤子の顔を竺に見せてやる。
 竺が恐る恐る覗き込むと、「芳」と名付けられた赤子は、兄を認識したのか、生まれたての皺くちゃで赤い顔を更にしかめて大きな欠伸をした。
「どうだ、竺。弟は可愛いだろう」
「……」
 竺は、何も答えない。どう反応してよいものやら戸惑っているのだ。
 二ヶ月前に生まれた従弟の繍を見に行った時は、素直に「可愛い」と口に出来たのに、同じ母から生まれた弟に対しては、何故かそんな気持ちになれない。
 あるのは戸惑いと不安、それだけだ。
「おっ、瑠玉。芳が笑ったぞ!」
「本当ですか敬英様? ふふっ、まさか……」
 父母が弟の顔を覗き込んでは嬉しそうに話すのを尻目に、竺は何も言葉にすることなく、ぷいと踵を返して部屋を出て行ってしまった。
「まったく……、兄になったというに、なんという態度だ」
 長子の期待外れの態度に憤慨する父親を見て、暎は言った。
「弟君がお生まれになられたこそですわ、旦那様」
「それの何が不満だというのだ。これから嫌という程に弟妹が増えるのだぞ。まったく親不孝者め……」
「あら。あの子の気持ちが一番お分かりなのは、敬英様ではありませんか?」
 王氏が微笑みながら、夫をたしなめる。
「どういう意味だ?」
「敬英様も、竺と同じ『長子』ですからね」
 王氏の言葉の意味を察した麋景は、顔を赤らめる。
「わ、儂は、あんな態度をした覚えなどないぞ。失礼な……」
「ふふ……。では後程、璋翼様と朗輔様に伺いましょう。ねぇ、暎」
「はい、奥方様」
 王氏と暎は、顔を見合わせて笑う。
「分かった分かった。ともかく子供達の事はそなたらに任せた。瑠玉よ、今日はご苦労だった、ゆるりと休めよ」
 すっかり居心地が悪くなった麋景は、逃げるように部屋から出て行った。
「敬英様も困ったお方ですわね……。さて、暎。あの子はどこに行ったのかしら?」
 夫が尻尾を巻いて逃げていく姿を、微笑みながら見送り、王氏は暎から赤子を受け取った。
「きっとあの場所ですわ」
「あの場所?」
「厩です。実は、旦那様ご自慢の駿馬がもうすぐ仔馬を産むのですが、その仔馬を若様にと、旦那様が約束して下さったそうです」
「それであの子、このところ毎日干し草をいろいろな所にくっ付けてくるのですね」
 母は母なりに、我が子の様子を見ていたようだ。

「ねぇ、仔馬まだかなぁ……」
「若様、いくら若様でもあまり近くに行ってはなりませんぞ」
 暎の言う通り、竺は厩にいた。
 彼の前には、この中で一際目を惹く美しい駿馬。はち切れそうなほど大きくなった腹をしていて、出産が間近に迫っていた。
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