睡蓮残夢 〜麋竺伝〜

□玻璃之都
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 僅か数ヶ月の旅ではあるが、一日中彼女にべったりな竺を、少しでも自立させようとの思いからである。しかし、実の母親である王氏は、この夫の考えには反対で、かえって暎に対する甘えが強くなるのではないかと危惧していた。
 麋景が最初、暎の代わりに選んだのは、竺とは面識のない女ばかりだったのだが、そこは王氏が譲らず、結局は竺が比較的なついている者に変更された。
 それでも出立してからというもの、王氏が指摘した通り、毎夜のように竺は暎を探して泣いた。これで傍にいるのが知らない女であったら、泣き通しであっただろう。麋景もその点は、王氏の主張を認めざるを得なかった。竺の人見知りは冗談ではなく、本当に手を焼く程に激しかった。
 「今から様々なものに興味を示すようになるのですから、無理になさらずともよいではありませんか」と、王氏は言うのだが、麋景は息子の将来が心配でならなかった。
「媽……。まぁ……」
 目に涙をいっぱい溜めながら、竺は居るはずのない乳母を呼ぶ。初めて来た所で早速、父に置いて行かれて心細かったのもあっただろう、やがて声を上げて泣き出してしまった。婢たちが慌てて交互に抱き上げ宥めてみるが、全く効果はない。
 そんな状態が、夕暮れまで続いた。女たちも途方に暮れ始めた時、麋景が戻ってきた。
「竺……。どうしてお前はそうなのだ」
 予想はしていたものの、実際にその光景を目の当たりにすると、父はうんざりする。
「旦那様、申し訳ありませぬ! 私達が至らぬばかりに、若様に悲しい思いを……」
 女達は、竺をあやしながら主に詫びた。
「いや、お前達は良くやっているさ……」
 麋景は泣きじゃくる愛息をひょいと抱き上げた。竺は父の顔を見て、また泣き出す始末。
「やれやれ。麋家の若様にも困ったものだ」
 竺がその日、寝るまで父から離れなかったのは言うまでもない。

 翌日、麋景は一台の荷車を従え、雒陽の中央大路を歩いていた。小さな竺が脇をちょこちょこと歩く。
 漸く諦めたのか、竺は今朝、乳母を探すようなことはしなかった。
(やはりまだ早かったのか……)
 昨日の様子から麋景は思ったが、
(これから先、この子は様々な者と関わりを持たねばならぬのだ。早いという事はあるまい)
と、思い直す。
 そもそも、麋景がここまで竺の行く末を案じているのには訳がある。
 この時、麋家には竺の他にもう一人、同世代の男子がいた。
 麋景の末弟、麋豹の長子・靖。
 竺よりも二年早く誕生した彼は、人見知りをすることもなく、誰にでも良くなつく愛想のいい子だった。
 詮なきことではあったが、どうしてもこの靖と較べてしまうのだ。
「父上」
 母親譲りのぱっちりとした二重瞼の瞳を向けて、竺は父に語り掛けてきた。
「今日はどこに行くの?」
 人見知りさえしなければ、竺は大変聡明な子だった。好奇心も旺盛で、今は玩具の弓矢と文字を読むことに夢中になっている。
 だから余計に、父親には人見知りが目について心配なのだ。
「今日は我が麋家にとって大事な者に会うのだよ」
「だいじ?」
「父上……、いや、お前のお祖父(じい)様が懇意にしておられた益州の陳家だ。ほら、あそこの酒家で落ち合う約束でな……」
 麋景は西大路が交わる一角に建つ、一軒の酒家を指差した。
「お前と同じ位の子がおったと思うが、連れて来ておるやもな」
 酒家に入ると、父が会いに来た人物は、すぐに向こうから声を掛けてきた。
「敬英殿」
「おお、久方ぶりだな」
 父達が手を取り合って再会を喜んでいる間、竺は従者の男の後ろに隠れた。
「若様……」
 従者の男は困惑した顔をして笑いかけたが、竺はそれどころではない。
 そこへ子供が一人、一目散に走ってきた。
「ねぇ!」
 物怖じすることなく従者の男に話し掛けてくる。
「おじさんの後ろの子、だぁれ?」
 竺よりやや歳上のようだ。はっきりした口調で、真っ直ぐ男を見つめる。従者が返答に窮していると、彼はお構い無しに背後に回ってきた。
「君、麋景おじさんの子ども?」
「……」
「ねぇ、僕は陳静っていうんだ。君は?」
「……」
「君、僕より小さいね。いくつ?」
「……」
「ねえったら!」
 立て続けに質問を浴びせられた竺は、目を丸くしてその子供を見ていたが、やがて逃げるように今度は父の背後に隠れてしまった。
「ん? 竺、きちんと挨拶をせぬか」
 息子に気付いた麋景が抱き上げる。
「おや、敬英殿のご子息か?」
「そうなのだが、見ての通りでな、ほとほと手を焼いておるのだ」
 そこへ先程の子供、陳静が駆け寄ってきた。
「麋おじさん、こんにちは」
「おう、これはこれは。大きくなられたな……」
 陳静の拱手に、麋景はにこやかに拱手を返してやる。
「近頃、生意気な事ばかり抜かしおって、言うことを聞かなくてな」
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