+ 桜 +
□Chocolate
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この日、町は何処も彼処もハートマークが乱れ飛んでいた。
店の前には特設売場が設置され、女子供が群がっている。
擦れ違い越しに聞こえるのは、手作りがどうとか本命はどうとかそんな会話ばかり。
そう、今日はバレンタインデー。
甘いチョコレートに想いを託し、伝える日。
相手を想いながら小さな箱を手に取る女達の眼差しは真剣そのもの。
それを横目にブラブラと歩きながら舌打ちする男が一人。
舌打ちの理由は、くれる相手がいない、モテない男の僻み。……ではない。
この男、すでに2個ほど貰っている。
しかし、その2個というのが身の危険を感じずにはいれないものだった。
ストーカー女から渡された納豆臭漂うソレは、確実に髪の毛的なナニかも入ってるに違いなく。
一見まともそうに見える社員の姉からは、チョコレートと言う名のダークマターが渡された。
望んでいるものは、甘いチョコレート。
幸せな気持ちになる魔法のお菓子。
記憶が飛びそうな魔の汚渦死ではない。
美味しいチョコが食べたい。
できれば可愛い女の子から貰えたなら、尚のこと良い。
だが、贅沢は言わない。
そもそも言えるような身分ではない。
男は自分がモテる男でない事を哀しいまでに知っていた。
それでも義理チョコぐらいならと淡い期待を胸に階下のスナックを訪ねれば、口を開く前に家賃を払えと詰め寄られ、同居人の大食漢娘にいたっては、食べかけの酢昆布でもいいならと渡されそうになった。
半泣きでスナックから逃げ帰り、テレビのバレンタイン特集を傷心な面持ちでぼんやりと眺める。
煌びやかで美味しそうなチョコが次々と映し出され、男は思わず生唾を飲んだ。
チョコレートが欲しい。
手に入らないとなればなるほど、その欲求は高まっていく。
しかし、待っていても手に入らない事は確実。
男は悩んだ。
普段手に入らない稀少なチョコレート。
この日を逃したら来年まで口にする事は出来ないに違いなく。
いや、来年も手に入るとは考えにくい。
こうなったら誰かに買ってきてもらうか。
そんな考えが一瞬、男の脳裏に浮かんだ。
だが、頼んだが最後。
事あるごとに馬鹿にされるのは明らかだ。
しかし、チョコは欲しい。
女装して買いに行くという手段もあったが、そこまでプライドは捨て切れない。
だがしかしとプライドと欲望を天秤に掛け、女装セットが仕舞ってある箪笥に目をやったその時。
男の耳に自分チョコなる言葉が飛び込んだ。
噛り付くようにテレビを見れば、数人の女性が映し出され一番高いのは自分のですと笑っている。
本命でも義理でもない【自分チョコ】
なんて素晴らしい響きだろう。
頑張っている自分に送るスペシャルなチョコレート。
最高だ。
自分の自分による自分の為のバレンタインデー。
なんて素晴らしい日だろうか。
悩んでいる場合ではない。
重く沈んでいた心が晴れ渡る。
「よーしっ、チョコレートゲットだぜ!」
こうして憐れなこの男。
坂田銀時は、薄い財布を手に意気込んだのだった。