アジトチラ見

□委ねる
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禁煙国家は、自分を殺す気らしい。
パシンッと、苛立ち交じりに、ニコチンパッチを肌に叩きつけたのが、薄暗い室内に乾いた音を響かせた。

課長の、「あーファイリングシートなくなっちゃったわー誰かとってきてー。」と、普段なら、『てめぇでやれよ』と、吐き捨てる戯言に、笑顔で答えたのは、この為であった。ニコチンパッチ1枚追加。
外を回れば暑い。中でモニターと格闘すると寒い。
何だこれは、なぞなぞか?答えは、しがないサラリーマンです。
人手不足と、やる気不足。おかげで、中堅に回ってくる仕事量は、可能量の数倍上回っているから、無理なのだ。
が、できる人の仕事術やら、ポジティブ心理学やらを、どっかに落ちていたビジネス雑誌から会社に都合のいいところだけ拾い集めてきた上のやつらが、新興宗教のように触れ回っているため、「無理」とは言えない空気に汚染されている。
新興宗教というのはあながちウソではないかもな、と思った。壺や水を買う代わりに、ビジネス本やレクチャー参加券を買って、考案者に還元されているのだから。

ただでさえ、イライラするところに、今度は、吸うなときた。
いや、それはそれでいいのかもな。もしここで吸えたら、ついでに火ぃつけてるわ。
普段なら、さほど可笑しくないことにも、笑いが滲んできてしまう。

あぁ。ダメだ。
末期だ。

くらっと、薄暗い天を仰ぎ、ついでにこのまま倒れ込んでしまおうかとしていると、左手から急に光がさした。
横目でちらりと見やるが、その視界はすでに黒い人影で覆われていた。
がくんと、背中が、人肌に支えられるのが分かると同時に、我が頭はこんなに重かったのかと実感する。
特に言うこともないので、無言で、自分を支えている人物の顔を見つめる。
暗順応が解け、逆光で朧気ながらも、ようやく人物の輪郭が見え始めた。

「はは。ふっ。おい、大丈夫か?」

と、その声の主は、意外にもこんな状況下で、笑いながら尋ねてきた。
同時に背中にあたる人肌から、じんわりと温もりが広がるような気がした。

大丈夫かと聞かれ、自分でもよく考えてみたが、大丈夫なのか、大丈夫ではないのか判断付かなかったため、ふぅっと、鼻から盛大に息を吐いた。

「ふふ。なんだよそれ。それが返事かぁ?」

と言いながら、声の主は、抱え込むように自分の体を支え、ゆっくりとその重心を下げ、自分を床に座らせた。
がっちりとした太い腕だ。
これなら、身を預けても折れないだろう。
青白い自分と、彼の日に焼けたブロンズ肌と、捲くられた白いカッターシャツ。
補色とまではいかない。
拮抗はしてはいない。
エボニーアンドアイボリー。
いいバランスだ。
抱え込まれた自分の体は、彼が開いたドアから流れ込む冷気からも、守ってくれているようにさえ思えた。
その温かみに思わず、彼の方へくるっと顔を向けると、かくっと頭を垂れ一回会釈した。

「ふふふ。面白れぇなお前。」

彼は、感謝を乞うわけでも、理由を詰問するわけでもなく、ただただ笑っている。
そんな様子を見ていたら、自分でも全く気付かぬうちに、口元は緩み、涙が頬を伝っていた。
頬も徐々に温もりが戻り、涙で湿気る跡筋が分かった。
彼からのあたたかみが、自分に血流を再び流させたらしい。

「おい。大丈夫か?」

と、自分の涙を見てその人は、初めて心配そうな顔をした。
少し慌てている彼を見て、今度はこっちが

「はは。」

と笑ってしまった。

それをみて、今度は彼にも笑顔が戻り、

「固まったまま泣かれると、さすがに驚くよー。」

と、彼の太く長い指が、自分の髪をクシャクシャと掻き乱す。
気持ちよさに目をつぶり、彼のその大きな手が右側頭と右耳と右頬を覆った時、自分は首の力を抜き、そっとその温もりに頭の重みを委ねた。
大丈夫。
彼なら、またきっと笑ってくれるだろうから。
大丈夫。
このくらい甘えても。
大丈夫。
ほんの少しの間だから。

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