パラレル-

□【He goes to a place with〜】
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「……反吐が出る」

低く吐き捨て、傍らに積んであった樽の山を横殴りにぶち壊す。
酷い音を立てて樽が潰れ、床へと転がるのを見向きもせずにボトムとブーツを身に付けて格納庫を出ると、オレンジソースの爽やかな甘酸っぱい香りが微かに鼻腔を擽った。
あの男が、蜜柑の大好きな少女のためだけに心を込めて拵える、特別なスウィーツの香り。
美味しいと食べる少女の笑顔と、それを嬉しそうに見守る男の姿が脳裏に思い浮かんだ瞬間、何故だろう、臍の当たりに渦巻いていた焼け付くような重苦しい不快感が、オレンジの香りに急速に溶けて凪いでいった。
それは温かく、穏やかな光景だった。とても、とても。
そして同時に、自分には絶望的に酷く遠い光景だった。
痛いだとか、苦しいだとか。
辛い、哀しいなんてそんな女々しい感情は、野望を抱いたときにとうに捨て去ったはずだったのに。
ゾロは鼻梁を歪めて天を仰いだ。
気づきたくなんか無かったのに、いっそのこと永劫忘れてしまっていたかったのに、気づいてしまったことがあった。


11月11日。

今日は己の誕生日だったのだということを。








正午を少し回った頃に着港した島は、染織で栄えている島なのだと聞いていたとおり、市場の店の大半が染物や織物を商品として飾り売りしていた。
必要なものを得られそうな店を探すのに手間取りながらも、どうにか言いつけられた買い物を全て終え、荷を肩に担いで港へと踵を返す。
船に荷を置いたら、酒場を探そう。
自分のために、いつもより少しばかり奮発してイイ酒を飲もう。
気づきはしたものの、今日が誕生日であることを、ゾロは誰にも告げていなかった。
酒を飲む口実ができたと思えばいい。
誰に祝ってもらわなくとも、美味い酒が飲めればそれでいい。
ほろ酔いの心地よさを覚えながら一人でベッドに沈み込み、ゆっくりと久方の陸での睡眠を堪能できたら、それだけで自分は。

「―――ちょっと待っとくれ、そこの兄さん。お前さんだよ、緑頭の剣士さん」

突然背にかかった声に、自分に言い聞かすように目の前の道を見据えていたゾロは、怪訝に眉を顰めながら声のした方をゆっくりと振り向いた。
活気に溢れた市場の雑踏の中、耳に届いたことが不思議なほどに皺枯れた声を発した主は、軒を連ねた狭い店先の、台いっぱいに眩く煌く鉱石を並べたその脇にぽつねんと立っていた。
頭から被った布の隙間から、灰鼠色の瞳がひたりとまっすぐに自分を射抜いてくる。
声から察するに女、それも老女なのだろうと思ったが、はすっぱな響きの言葉使いとは裏腹に、その体長は三歳児くらいのそれしか無く、また眼光は突き刺すような鋭さに満ちていた。

「………」

ゾロは眦を細め、相手を注意深く観察した。
殺気は、今のところ無い。こちらへの害意も感じられない。
ただその身に纏う気配だけがどうしようもなく禍々しく濁って生気を感じさせず、まるで、本来現世に在らざるべきではない者が人の形を模して日常の隙間に紛れ込んでいるような、そんな得体の知れない不快感がやたらと鼻についた。
こんな店がさきほどまであっただろうか?
ありえない疑問を抱くのは、もしも自分を呼び止めるまでの間、ずっとこの女が自分を見ていたのだとしたら、禍々しくも針の筵のようなこの視線に自分が気づかぬわけがないからだ。
近づいたものか、それとも無視して港へと向かって歩き出すべきか。
擡げた逡巡を見透かしたように、声と同じく皺の寄った拳がこちらへ向かって突き出された。
開かれた掌の上には、売り物の中の一つであろう、陽の光を反射して眩く黒光りする鉱石の塊が一つ載っている。

「……それを、どうするつもりだ?」

自分に売りつけようとでも言うのか。それともそこらに転がる石ころのように、自分に向かって投げ付けでもしてみるつもりか?
眼を細めたまま低く尋ねると、女は口端だけでニタリと笑って言った。






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