短い話(中身)

□【松】猫の目
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私は猫である。名前はまだ無い。
路地裏のつきあたりを寝床にしている。時々やってくる猫背の青年からおやつをもらい、慎ましくごろごろにゃんにゃん快適に過ごしていた。いたのだ。

薄暗くなった空。秋が近づくこの頃は冷え込んできているのかもしれない。冬毛が生え揃ってきた。日向ぼっこを終えて路地裏へと帰る。耳を済ませて近づく。我が家は不良の気晴らし場になっていた。後から来た者にどうしてこうも気を使わなくてはいけない。
今日は終わった後らしい。男性が1人倒れていた。周囲に何か散らばっている。足元のものに顔を近づける。

(にぼしだ!)

男性に駆け寄る。彼は見覚えのある紫色のパーカーを着ていた。投げ出された腕と足。動かない。ひーひーとおかしな音が喉元から聞こえる。
あの青年じゃあないか。
目の前に行って鳴く。目が今にも閉じてしまいそう。おい、しっかりしてくれよ。

憂さ晴らしの対象は我々や無理矢理連れられて来たひ弱そうな人間。青年はタイミングが悪かったらしい。ひたすら鳴いていると青年は目を開けてくれた。しばらくぼんやり私を見ていた。私に手を伸ばしかけてその顔が苦痛に歪んだ。伸ばされた手は地面へ落ちる。そのまま荒い呼吸を続けるだけ。重症だ。

(助けなくては)

私は彼に恩がある。人間のすることに恩だの礼儀だの猫がいちいち構うわけもないが彼は別だ。

小さい頃身体が弱い私に毎晩毛布をかけ直しに来、シリンダーであったかいミルクも飲ませてくれた。(あれはおいしかった)成人してから一度だけ病気をして病院に連れていかれた。もう二度とあんな場所行きたくないが。あそこはツバより効くクスリがもらえる。お前も注射はいやだよなぁってずっと撫でてくれた。優しい手つき。なでるの上手。猫と人間との一線をきちんと理解した青年。
何を人間に施してもらおうが私は野良猫である。いつもなら素知らぬ顔ができたのに。結局私は青年に入れ込んでしまったのだろう。

どれだけ鳴き続けても青年はもう目を開けてくれない。頬にすり寄って路地の隅に近づく。放られた煮干しの袋に顔を突っ込み形のあるものを咥える。出ていく前に青年にもう一度すり寄った。誰か呼んでくるから。どうか無事で待っててくれ。明るい出口にかけた。ここはもうおしまい。危険になれば私たち猫は蜘蛛の子をちらすように姿をくらます。私ももうここを出ていく。ほかの猫にも移住するよう説得するから。
我が恩人、あなたももうここにきちゃいけないよ。



〘野良猫、助けを呼びに行く。〙

「え、なに煮干し?お前食わねぇの?なんで?さすがに猫咥えたやつはおれ食べないよぉ」

「にゃーん、にゃお!
(違う!お前の家族のだ!頼むから、ついて来てくれよ!)」

「一松にーさんとこの猫だー!どーしたの?」

「(こいつに頼もう)」



あれは人間でお前は猫だろう?お前はとっくに独り立ちできているというのにあれがいるからここを離れたくないなんて。お前はあれの家猫でも犬でもないというのに。

他の猫たちに言われた言葉だ。青年がこの距離でいいというなら私は家猫などなりたくはない。むしろ野良が性に合うとすら思っている。
ならあのうざったいくらいスキスキアピールする犬どもと同じで結構。犬みたいな野良猫だっていいじゃないか。

もうとっくに独り立ちしてる。自分のことは自分で決める。私は恩返しがしたい。献身的なこの青年に。




公園と家の隙間でごろごろにゃんにゃん。以前一緒に住んでいた仲間たちもいる。新居は心地が良い。となりの家は老人が1人で住んでいるらしく静かだ。たまに自転車に乗って買い物に行ってるのを見かける。

ぐうと伸びてあくびを一つ。もう一眠りしようと丸くなり耳を立てた。サンダルの音が近づいてくる。がさがさとパーカーのポケットからわずかに音を立てる、きっとにぼしの袋。

「みんな元気にしてた?」

くるまったままの私の後ろから青年の低い声。元気そうだ。全く隣街までよく来たことで。

「今日は猫缶もあるからね」

プルタブを開ける音。仲間たちのいくらかが青年に集まっていく。しばらくして足音が細道を歩く。私の前でしゃがんだ。

「久しぶり」

背中をなでられ青年を見上げる。紫のパーカーは気倒したせいでくたびれてはいるけどボロボロじゃあない。顔色も悪くない。よかった。あごの下をなでてくる。ごろごろ、ごろごろ

「お前はにぼしの方が好きだからね」

くだけたにぼしを私の前にひとつ置く。私は素知らぬ顔をしてまた頭を伏せる。いらない。青年は形のあるにぼしをひとつ指につまんで私に差し出した。食べる。青年が小さく笑った。

「もう大丈夫だよ」

ばかいえ。もう捕まるんじゃないぞ。心配させて。毎度形のあるにぼしを選ばなくていいよ。欠けていたってあなたの手からなら食べるさ。
足元にすり寄ると撫でてくれた。やさしい、あったかい手。青年の手に頭をこすりつけていたら青年はまた小さく笑った。
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