此岸でひととき

□5 不穏
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サラサラ、揺れてる。
風が吹くとふさふさ生えた背の毛が揺れているのがわかる。こちらの焚き火からほんのすこし先で暗闇からそっと顔を出した猪。こちらに飛び込んでくる様子もなさそう。焚き火が怖いのだろう。
夜番のもう1人の男は、今日は起きている。すばらしい。はなまる満点。

「おい」

「はい、居ますね」

獣の発見に声質を変えた男の声。獣がいることを確認しあって2人でじっと見つめる。
夜の時間は好きだ。心地よい静けさと溶けるような黒色の暗闇。
はぐれた猪だろうか、まだ若い。それとも山に食べ物がないのか。
そのうち猪は森に帰っていったらしい、姿をくらませてしまった

「いなくなりましたね」

「ああ」



心地よい夜の時間は割とすぐに過ぎてしまう。というか、しまった。
いま私がいるべきはこの時じゃない。なぜかはわからないけど、起きなくては。どこに?



「何をしてるんです?」

丁の声で意識が完全に引き戻される。
低くなった視界の端には水瓶が転がっている。身体、服が冷たい。少しぬかるんだ地面。いや今日は晴れだったはず。頬、手のひらがじゃりじゃりする。あ、地面。そう。

「....転びました」

「あなたという人は....もう水瓶が割れそうになっても助けませんよ?」

「勘弁してください...」

地面に寝ころんでいる私に丁の声が上から冷ややかに降ってくる。いつからだろう、私と丁のなにかが逆転したのは。
以前は私の方が丁に教える立場で、というか丁、可愛かったのに。採集以来こんな感じで定着してしまっている。助けてもらっているのだからどうにもしようがないのだけれど。もしかして私が誤解していたのか。元々こうだったのか。

「全く.....どれだけ急いでいても走ってはいけませんからね。せめて早歩きです。いいですか」

「はい....
汲み直しますから先に行っててくださいな」

「1人で森をうろつくのは危険だと教えてくれたのは雪ですよ。私も一緒に行きましょう」

ついて来てくれた。口が悪くなったのはもうご愛嬌。根は優しい。朝方は比較的安全だと教えたのを賢い丁が忘れているわけがないというのだ。

(あら....?)

水面に違和感。川の水が減っている。この時期にしてはかさが低い。低すぎやしないか。
そういえば最近は雨がほとんど降っていなかった。すっきり晴れた空が美しいくらい。

背すじが冷たくなっていく。脳裏に浮かぶのは彼女だ。私より年上の同じ召使いの彼女。もういない。獣に食われた訳ではない。彼女は獣の扱いが上手かった。病気の訳でもない。私がずっとそばにいた。
私の思考を無視して川はいつもより減った水量でころころと笑うように流れていく。

「雪、早くしてください。朝餉に間に合わなくなってしまう」


丁の急かす声で我にかえる。丁を振り返る。黙ったままの私を怪訝な顔をして見つめかえしてくる。丁。利発な子。仕事も早く私のように主人にも村人にも怒鳴りつけられることも少ない。

今年の雨乞いの生贄に誰が丁の方を選ぶだろうか?
叱咤してぎこちなく身体を動かして水を汲む。私は今年秋の地面を踏むことができるだろうか。
水がめが手からすべっていってしまった。そのまま、割れてしまった。丁のため息が後ろから聞こえる。私はぼぅとして割れて流されていく水がめを見つめることしかできなかった。
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