【短編】ヴィクトル・ニキフォロフ×勝生勇利

□さようなら
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始まった瞬間から、終焉は見えていた。
もしヴィクトルが現役引退を宣言して勇利のコーチになっていたら、そうは思わなかったかもしれない。
少なくとも僅か8カ月を共に過ごしただけで終りにしようなどと切り出すことはなかっただろう。

「ヴィクトル、僕達もう終わりにしよう」

SPが終わった夜、勇利は静かにそう告げた。
この人をいつか手放して氷の上に、ロシアに戻してあげなくてはならない。
自分の演技より他の選手の演技に引き込まれているのなら、もう選手生命を終えようとしている勇利ではなく、もっと興味をそそられる選手の傍にいればいい。

「え……?」

一方、突然離別を告げられたヴィクトルは、己の耳を疑った。
今日の自分は勇利以外の選手にも注目していたが、心臓が締め付けられるほどに苦しい思いをしたのは、勇利の演技中だけだ。
これから勇利に何を教えるべきかまで考えていたというのに、どうして最終滑走を明日に控えた今、そんな話を耳にしなければならないのだろう。

「勇利、何を言って……」
「ずっと決めてたことなんだ、今季限りで引退するって」
「──っ!?」

誰よりも一番勇利の傍にいたはずなのに、今この瞬間まで勇利の心の深淵にどんな思いがあったのかを知らなかった。
ヴィクトルよりも4歳年下だからこそ、勇利の選手生命はまだまだ続くものだと勝手に信じ込んでいた。

「ごめんね、ヴィクトル……」

勇利は困ったような笑みを浮かべるが、こんな場面でどうして笑うのだろう。
本当はコーチなどいらなかったのだろうか。
勇利はこの8カ月、「ヴィクトルと戦う」のではなく、「独りで戦う」という姿勢を貫いていたのだろうか。

「謝るくらいなら、なぜ言った?」
「今言わないと、あなたはどこへも行けないって思ったからだよ」
「謝るくらいなら、なぜ指輪を渡した?」
「僕はお守りが欲しかった。そしてヴィクトルにお礼がしたかった。コーチ料はちゃんと支払うから、請求書送ってくれる?」

勝手なことを言ってくれるものだと、ヴィクトルは重い溜息をつくが、もしかしたら勇利に引退を決めさせたのは、自分なのかもしれないと漠然と思った。
現役引退をしないままコーチになったということは、つまりヴィクトルはいつでも使える逃げ道という名の切り札を持ち続けていたことになる。
そこに勇利が不安を抱いたとしてもおかしくはない。
それに勇利がグランプリファイナルへ駒を進める間、ヴィクトルは1年前までリンク上で競っていたライバル達から幾度となく復帰を勧められ、その度に曖昧な言葉でのらりくらりと逃げてきた。

「俺のせいか……?」
「そうじゃないよ。誰のせいでもない、これが運命なんだと思う」
「勇利はその運命に抗おうとは思わないのか?」
「うん。もう身体が限界だしね……さよならだよ、ヴィクトル」

だからこそ、この8カ月間が勇利にとってはかけがえのない宝であり、お守りと称して買った指輪にはこれまでの思い出全てが詰め込まれているのだと信じている。
心折れた時に指輪を見れば、幸せに笑っていた自分と、常に寄り添ってくれていたヴィクトルの姿をいつでも思い出せるはずだ。

「あのね、ヴィクトル?」
「ん……?」
「明日を終えたら、その指輪は外してくれて構わない。重荷だったら捨ててくれても構わない」
「勇利……?」
「あなたを縛るのは明日が最後だ。だから、明後日からはヴィクトルが好きなように生きていいんだよ」

ずっと言いたくなかった台詞を口にしたら、自分はどうなってしまうのだろう。
勇利は時折イメージトレーニングをしてきたが、よもやここまで冷静さを保ちながら放てるとも考えておらず、自分でも意外だなと思っていた。





ヴィクトルが間違えていたというのなら、今から正しい道を探してやり直すことはできないのだろうか。
明日限りで失われる尊い時間を、ずっとずっと味わっていたいと願うのは、ただの我儘でしかないのかもしれない。
だが、離別を突き付けられた今なら、自分の気持ちがよく見える。



離れずに傍にいて──、勇利はいつだったかそう言ったけれど、本当にそう思っていたの?



物理的に離れていても心は常に傍にあるというのが上辺だけの綺麗事であることは、ロシア大会の途中で勇利と離れて初めて気付いたことだった。
だからこそ、もう離れることなく傍にいようと決めていた。
そんな中勇利が決めたことを尊重すべきなのか、コーチを辞任するという道を視野に入れなかった自分を主張すべきなのか、本当に理解できないことばかりで、心が裂けてしまいそうだった。





(終わり)

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