大凶
※『セレナーデは聞こえない』
※暗い
※天馬君が物騒
後から冷静に考えれば、見間違いだったかもしれない。
もしくは幻覚。他人の空似の可能性もあったが、目が合った気がしたのだ。
憎しみのこもった目で睨まれたような気がした――。
かつての上司そっくりのそれはやつれた顔をしていた。セクハラで会社を解雇された彼は妻と娘に軽蔑され、離婚もしたのだと聞いた。
きっと自分は恨まれている。
被害者なのに、完全な逆恨みだ。
報復を恐れて何故自分がビクビクしないといけないのか、腹立たしくて情けなかった。
偶然元上司らしい人間を見かけてから……どうやって帰宅したのかはっきりとした記憶がない。
色々な感情がごちゃまぜになって玄関で蹲り動けないでいると、大きな手が背中に添えられた。今は神経が過敏になっているというのに、不思議と嫌悪感はなかった。
「大丈夫っスか?」
天馬だ。母親に家を追い出された彼と最近一緒に暮らすようになった。
自分は一体どのくらいこうしていたのか。もう彼が学校から帰ってくる時間だなんて。
傍らで190近い体を屈め、クールな天馬が今は心配そうに眉を下げて顔を覗き込んでいる。
「気分悪い?吐きそうなら手伝いましょうか。全部出した方がスッキリしますよ。あれだったらここで吐きますか?俺がちゃんと片付けるんで」
「ありが、と……でも平気だから、」
年下の恋人を安心させようと無理に笑う。顔が引きつっているのが自分でも分かった。
明らかな異変を察した天馬は「何かあったんスか?」と訊いた。いつもはしっかりした年上の恋人の弱った様子に内心はかなり戸惑っているようだ。
――ごめんね……そんな顔させて。
思いながらも、取り繕う余裕もなく正直に話した。
前の職場での事は既に天馬にも知っていたのでそんなに長い説明は必要なかったが、途切れ途切れに言葉にしたので時間がかかった。
天馬は根気強く聞いてくれた後、重々しく口を開いた。
「俺に――どうして欲しいか教えてください」
「え、」
「アンタが望むなら今すぐそいつ殺してきます。
俺馬鹿だからこれしか思いつかなかったけど……手っ取り早いし、そうすれば少しは気が楽になるんじゃないっスか」
天馬の目は真剣だった。
そもそも彼は冗談で軽々しくそういう事を口にする人間じゃない。
本気でこちらに問いかけていた。
「それだと天馬くんは……」
「おとなしく自首して刑務所行きます。それで、出所しても二度とアンタの前には現れません。いや、遠くからちょっと見るくらいはするかもしれませんけど……犯罪者がアンタの人生に関わる事はしたくないんで。
俺はアンタが好きだ。沢山優しくしてもらった。だからあんたの為なら何でもする」
過激な、まともとは言えない提案――それが彼なりの献身なのだ。
物騒で一般的には忌避させるような発言だが、愛しさで胸がいっぱいになった。
反面、自分の身さえ省みない彼がいつか目の前から消えてしまいそうで恐かった。
「何もしなくて、いいから……一緒にいて……!」
今はただ天馬の温もりを感じたくて、自分より大きな体に縋りついて泣いた。
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