おみくじ

□吉
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真夜中。

床の中で顔面に走った違和感に目を覚ました篝は、上体を起こして顔に触れた。

ぬるりとした感触が指先に伝わる。枕も血塗れだ。篝は舌打ちをして寝間着のまま部屋を出た。

どうやら額の古傷が開いてしまったらしい。
日々新しい傷を刻む篝は痛みに慣れているので、三日ぶりの安眠を優先して気付くのに遅れた。
たいして珍しい事でもない。

いつまでも治らない傷は戦場での動きを鈍らせ、邪魔なだけだ。

枕は後で処分するとして、不快な感触を洗い流そうと中庭の井戸で水を汲んでいると、背後から人の気配がした。ここは忍の里の頭目の屋敷だ。侵入者……という可能性もある。篝は袖口に隠した武器を構え、警戒して振り返った。



「誰だ」

「――す、すみません。そこにいらっしゃるのは、篝さん、ですよね」

「っ嘉帆姫様!」

「やっぱり、篝さん」



そこにいたのは、頼りない明かりを灯す行灯(あんどん)を片手に持った、己が仕える忍の里の姫、嘉帆だった。

正確には忍の里の若君である十毅の伴侶である彼女は、普通の人間と同等の身体能力しかない。

尚更守らなければいけないと篝は強く誓ったのだが、いくら気が立っていたとはいえすぐに姫だと気が付かなかった己を恥じ、その場に跪いた。



「篝さん、もしかしてどこかお怪我を?」

「い、いえ、そのような事は……」



つい額の方を押さえる仕草をしてしまい「そこですか。見せてください」と、行灯を足元に置き、現役の忍とは正反対の小さな柔らかい両手で顔をささえられ、俯いた顔を上げさせられた。

夜空の星を凝縮したかのような美しい瞳に見つめられ、篝は金縛りにあったかのように動けなくなった。



「……良かった。あまり深くはなさそうです」

「これ、は……古傷が開いただけですので、嘉帆姫様がお心を砕く程ではありません。放って置けば治ります」

「……でも、出血したままじゃ辛いでしょう。私でよければ手当てしますよ?」

「そんな、恐れ多い……っ」

「ご迷惑でしたか?」



篝は、嘉帆の不安そうなその声に弱かった。

それは忠誠心というより、ただの庇護欲に近いのかもしれない。健気で愛らしい女を守りたいという、男の本能なのかもしれない。

彼女の不安な気持ちを拭えるなら、己が持っている物を何でも差し出してしまいたくなる。

前頭目の奥方である百合千花に仕えていた時はただ、主君を害する敵を排除する事ばかり考えていたが、これも心境の変化の内なのだろうか。



「それじゃあ、お部屋から軟膏を取ってくるので縁側で待っていてください。ちょっと散歩に出ただけのつもりだったんで、ついでにトギくんに事情も説明しときますね。ああ見えて心配性で……ちょっと嫉妬深いので」



あの異常な嫉妬深さを“ちょっと”という程度で表現するのか。篝は何回か殺されかけた経験があるが。


――まあ、そこも若様の素晴らしい一面なのだが……。



「はい、ちょっと()みますよ」



暫くして戻ってきた嘉帆は、縁側に正座する篝の前髪を片手でかきあげ、もう片手で軟膏を掬って塗りつけた。

まともに怪我の治療をしたのは何年ぶりだろう。
ジン、とした痛みより、空気に触れてひんやりとする軟膏の感触の方が慣れない。



「篝さん」

「はっ。何でしょうか」

「私、いざとなったら逃げ回る事しか出来ませんけど、少しでも篝さんが傷付く負担が減るように気を付けます」

「その必要はありません。俺がその分、強くなります。絃敷のような色男ではなく俺のような古傷だらけの醜男(しこお)(はべ)らせるのは、お恥ずかしいでしょうが……」

「え、篝さんも十分整ってるじゃないですか」

「いえ、そのような事は……」

「あ、櫛を持ってきたので髪をといていいですか?明日は護衛の任務があるとお聞きしたので、身なりはちゃんとして置きましょう」

「あ、有り難き幸せ……!」



髪に櫛が通るのは、案外心地好い。
この感覚は、姫様が篝にあたえてくださったのだ。


末永くお仕えしようと改めて決心した篝だが、翌日、露骨に十毅からは無視された。

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