夢心地
□気まぐれ
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「大哥、その子は?」
「ああ、子猫を拾ったんだ。彪、この子が住める部屋を一つ手配してくれ。」
その時はまたこの人の気まぐれが始まったんだと思った。
頭から血を吹き出し倒れている男の前。
涙を流しながらも銃を握り歯を食いしばって立つ小さな娘を横に連れてジタンをふかしていた大哥を見たのは随分前の事。
彪はすっかり整理された書類を元の場所に戻すチゥをぼんやり見ていた。
彼女は特別腕の立つアサシンなわけでは無い。
ハニートラップを駆使して世渡りする程したたかでもない。
身寄りがない為金払いの良いお嬢様な訳もない。
そもそも、張大哥はチゥに何も仕事をさせる気がない。
何故そんな彼女をこの三合会にずっと置いているのか。
理由はシンプルだ。彼女を 心底気に入った のだろう。
燻んだこのロアナプラでも気丈に咲くいじらしい花がとんでもなく愛おしくなってしまったのだろう。
「今回の大哥の気まぐれは長く持つな。」
ぽつりと呟くとチゥは手を止め首を捻るが直ぐに自分の事だと分かったらしい。
『張さんは前にもこんな気まぐれを?』
「いや……今回は質が違うな。寝ちゃいないんだろう?」
サングラスを直しながらため息混じりの彪に まさか、あり得ないわ と言うようなオーバーな笑みを向ける。
すると落ち着きのある靴音が近づいてくる。
ドアがゆっくりと開くと噂の御仁。
既におどけた様子でいる。
「俺の居ない間に噂話か?道理でクシャミが酷いはずだ。」
『ふふふ、お帰りなさい、張さん。そうですよ。鬼の居ぬ間に、と言いますでしょう?』
その言葉に喉で笑うとチゥの頭にポンと手を置きそのまま優しく撫でる。
「言うようになったな。それはそうと、今日は時間が出来た。二人で食事でも摂ろう。ここに料理を運ばせる。何頼んでも良いぞ。」
『何頼んでも!!ケーキが食べたいです!』
「好きにするといい。ただし、それは食事の後だ。」
『うふふ。はーい!』
張が差し出す手を、何も考える事は無いと言うようにとるチゥ。
全く、本物に張大哥はチゥを甘やかしている。
彪は張がお姫様との食事の為、後回しにした仕事を片付けながら大きくため息をついた。
食事が終わると張はチゥを部屋に招き入れるがそばに置いてずっと髪をすいてやったり撫でたりしているだけ。
「よい香りだ」
『張さん、くすぐったいですよ。』
くすくすと笑いながら身を捩るチゥに優しく語りかける。
「まだ怖いか?……俺の事がじゃ無い。こうゆう事が、だ。」
そう言ってチゥの首筋に軽くキスをした。が、 あっ と小さく声をあげた彼女に振り払われてしまう。
『あの……ごめんなさい。張さん……まだ……』
申し訳なさそうに目を伏せる彼女は今にも泣きそうな表情で居る。
チゥは父親にレイプされる毎日を過ごし、肝心の母親はその嫉妬から彼女を酷く攻めぬいた。
そしてある日その男は母親と言い争いをし、終いに母親を殴り殺してしまった。その様子を見て怯えたチゥはそこから逃げた。
追ってくる男から必死で逃げていた途中、張とぶつかり彼女は言った。
力を下さい
助けてとは言わない、スッと真っ直ぐ伸ばされたその手の上に張はほんの気まぐれで銃を乗せてやる。
チゥは渡された銃を握りしめ後ろを振り向き、息を切らせ追いついたその男の頭を貫いた。
そのせいで、彼女は添い寝やキス以上の事は怖がる。酷いこと痛い事のイメージが抜けないのだろう。
今の段階では、自分に男としてではなくまだ半分くらいは父性を求めているということも分かっているし、彼女自身もそれを分かっていながら半分は男として愛している。
「いいんだ。無理もない。」
『役に立てず、すみません……』
その言葉を聞いた張はサングラスを外しなるべく優しく微笑んだ。
そして彼女を膝の上に座らせ抱きしめながら頭を撫でる。
「約に立つとかそうゆう問題じゃないさ。いいんだ、いいんだよ。チゥはどうか眩しく笑っていてくれ。それが一番、俺には出来なくて君にできる事だ。」
『張さん……。ありがとうございます。大好きですよ』
愛してるではなくて、大好きという所が彼女らしい。
なんだかニヤニヤとわらけて来てしまってぐっと抱きしめた。
そのままベッドに倒れこみ張は疲れていたのか直ぐに眠ってしまい、そのゆっくりとした呼吸のリズムにつられチゥも眠ってしまった
『ああ!張さん!寝過ごしてしまいましたよ。』
「ん、ああ……。今日は休むか。」
『ダメですよ!彪さんが過労死してしまいますー!』
ベッドに潜りなおしてしまう張をぽふぽふと叩き引っ張り出す。
「チゥは働き者だなぁ……。」
寝ぼけた頭を掻きながらされるがままに起き上がる。
それを見てチゥはクスクスと笑う。
『そうですよ!働かざるもの食うべからずです。』
「でも君は俺が食わすから問題ないな。」
『全く張さんたら。』
淹れたてのコーヒーを受け取り一口。
チゥはコーヒーを渡すと隣に座り張の手の上に自分の手を置いた。
『ねぇ、張さん。私は今、昔の私が見たら羨ましさに倒れてしまいそうな程に幸せですよ。こんなに、甘やかされた事はありませんでしたよ。』
クスクスと笑ってはいるが何処か寂しげな雰囲気にあえて何も返さず微笑み返した。
『ね、どうか、貴方の気まぐれがずっとずぅっと続けば良いのにと最近は考えてしまうのですよ。』
「……気まぐれ?ああ、確かにそうだったな。気まぐれだった。甘やかしたのだって最初は実験的なものだった。」
『実験ですか…?』
「ああ、ずっと酷い目にあっていた子が突然優しくされたらどこまで相手に依存するのだろうってね。」
一瞬だけ傷ついたような表情をしたチゥを直ぐに抱き寄せる。
「すまない。でも最初だけだ。俺もヤキがまわったかね、すぐに自分がそうしたくて仕方なくなった。これを見たら君は笑うだろうな、これを渡したら君はきっと喜ぶんだろうな。こんな事で頭がいっぱいになっちまった。」
『うふふ、とっても嬉しいけれどそれはきっと張さんらしく無いのでしょうね。お仕事は気をつけてくださいね。さ、そろそろ出なくちゃ』
そう言って赤い顔でベッドから立ち上がるチゥの足元にわざとらしく跪いて見せる。
何気とかときょとんとする彼女へ両手を広げた。
「君のために行って参りますよ。どうか姫君から激励のキスを。」
自分がこんな事をして見せたのがおかしかったのか。わざとらしい物言いがおかしかったのか
彼女は大きな声で笑って腕に飛び込みキスをした。
欲求を堪える事は辛いが、可愛くて堪らない。
今日は彼女の好きなレストランへ行こう。
ああ、また彪の 大哥、甘やかし過ぎです を聞くハメになるんだろう。