人として
 朝から溜息が出た。
「よっ 朝から何しけた顔してんの?」
らしくないぜ っと、軽く頭を叩かれた紫織は、頭の上にある手の重みをどかす。
明け方まで煩く降っていた雨は嘘のよう。今は快晴という言葉が相応しいぐらいに太陽がアスファルトを照り付けていた。

まだ、夏でもないのに。

中高生の象徴とも言えるセーラー服と学生服に身を包んだ二人は、いつものように学校へ足を進める。
朝っぱらから、眠たい体を起こして学校という習慣化されている場所へ向かわなくては行けない学生という職業は、面倒だと紫織は思う。
団地と呼ばれる家々の固まりによって作られた場所の間の小さな道路。そこは、今の季節では家の塀や壁によって小さな影が幾つもできる場所であって、そこをわざわざ選んで通ってきているのに。アスファルトからの熱が鬱陶しい。
一人黙々と暑い空気に苛つきながらも、まだ寒さを防ぐ対策抜群の冬服を暑苦しそうに着ている宿木紫織は、後ろからかけられた声と手の重みに、足を速めた。そんな紫織に慣れているのか、幼馴染である白石楓は紫織に追い付こうと足を速める。
「失礼ね。 あんたそんなだから、真美先輩にフられんのよ。」
「い、今それ関係なくね?!」
ポニーテール気味に纏められた髪を不機嫌に揺らしながら、紫織はさらに足を早めた。それを追い掛けるように大股で歩く楓は、長身の長い足で紫織にすぐ追い付く。

そんなことにさえ、腹が立つ。

「紫織さー 毎年この時期になると不機嫌になるよな。」
「…雨が鬱陶しいの。」

不機嫌になるのは、楓のせいだ。

と、声には出さず、口だけ動かす。
本当は、人に会いたくない。関わりたくない。
そんな気持ちが、沸くように出てくる。

二年前に姉が死んだ、五月の終わり頃には。

だから、独りでいる時間が増える というより、自分から増やしている気もする。
それなのに、コイツは能天気に踏み込んでくる。
「………今日、雨降ってないぜ?」
 溜息と共に、速めていた足も止まった。
「…はぁー やっぱり馬鹿じゃないの、あんた。」
 ギラギラと照りつける太陽に、鬱陶しいほどの熱を向けてくるアスファルト。
 それはまるで、イライラと、何か心に靄がかかっている自分のようだと、紫織は思った。
「ふーん、どうせ俺は馬鹿ですよーだ。」
「・・・。」
 まるで小さな子供のように拗ねる楓から視線を外し、紫織は無視するかのように、また一人で黙々と歩き始めた。
 なんで紫織は不機嫌なんだ?
一人首を傾げている楓をよそに、紫織は更に歩を早め一人で校門をくぐった。
「あ、ちょ、紫織! 待てって!」
 紫織の後ろを走って追い掛ける楓は、二年前のこの時期に起こったある事件を、ふと思い出していた。自分自身、眉間に皺がよっていることに気がつかないまま。

 ひょっとしたら、紫織をまだ縛っているのではないか 、と。





ピーーッ
ホイッスルが鳴る。
それに反応し、皆が走りだした。
速く、もっと速く。高く、もっと高く。
夢中でハードルを飛び、周りの人を追い越していく。
紫織の大好きな体育の授業。『汗をかくのがイヤだ。』とか、『一生懸命は恥ずかしい、かっこわるい。』だとか、周りの意見なんか関係ない。

ただ、走る。

背後から、真っ黒い影のような悪者が追ってくるわけでもない。
ただ、夢中になりたいだけだった。
「おっ また一番じゃん、紫織。」
「…沙恵は?」
 少し汗が体操着に鬱陶しくついて、中にこもる湿気を出すために、体操着を掴み、軽く動かす。
全然 っと手を左右に振った沙恵は、紫織と仲の良いクラスメイト。すると紫織の肩に沙恵の手が軽く触れる。
「紫織殿には及びませぬ。」
ふざけて言った沙恵。紫織は体を捩らせ、沙恵の手を振り払う。

ほんの一瞬、無意識に。

「………しお、り‥?」
「…ぁ、ごめん 沙恵、そういうつもりじゃ…」
肩に手を触れられると、次には絶対『頑張れ』の言葉がくる。
当てにしないで。 あたしなんか。
嫌だ。 あたしはダメなんだ。 頑張れるわけがない。 
「‥ごめん、紫織。」
少し悲しそうな顔をして、沙恵は明るく話す女子の人混みの中に紛れていく。
「沙恵……」
また、人を傷つけてしまった。
やっぱり、あたしはダメな子なんだ と、紫織は俯きながら一人、次のスタートダッシュのために、準備を始めた。

どうして、あたしは人を傷つけてしまうのだろう と。

気が乗らないまま、ホイッスルに従って走り始めた。





年が二つ上で、頭が良く、気配り上手。余計な事は喋らない、まるで模範のような姉に対し、頭より先に体が動き、真実を自分で確かめなくては居ても立ってもいられなくなる紫織。
容姿だって紫織とは反対に、漆黒の黒髪が印象的だった姉。パーマやアイロンもかけていないのに、自然とストレートに伸びる姉の髪に対し、
紫織は小さな頃から茶髪で、痛んでいるのか、天然パーマほどはいかないが癖っ毛だった。
おとなしく、清楚という言葉が誰よりも似合う姉に、おとなしめの黒髪が良く似合っていた。

紫織は羨ましくてしょうがなかった。

何もかも、違っていた。
愚妹とは紫織のことだ と、周りに言われ始めたのはいつからだろう。
『アンタはできない子なんだから。』
『香織を見習いなさい。』
頭脳は全て姉に取られたのだ と、小学生の頃から思ってきた。運動ができたって、両親も周りの大人も、あまり喜ばなかった。

頭がよくなくちゃ、だめだ。

誰がそんな事を決めた?
紫織には、小さな頃から不満が沢山あった。
そんな不満をぶつけ、示すように。反抗期のこの時期は特に荒れていた。
最近少しは抑まってきた というより、抑える事ができるようになってきた。それでも不満は溜まる一方だった。

姉が死んで、自分に振りかかる拒絶や絶望が、少しは減ると思っていた。

しかし、姉が死んだこの五月の終わり頃になると、イライラと共に、淋しさが込み上げてくるようになった。
比べられないようになった代わりに、いつ誰がいなくなってしまうか分からない。

不安に押し潰されそうになる。

心配してくれている、幼馴染の楓にだって突っ掛かってしまう。親友と呼べるほど仲の良い沙恵だって傷つけてしまう。
あたしに関わると… と考えてしまう自分もいる。
紫織――自分の嫌なところだ。
そんな紫織に追い討ちをかけるように、最近紫織はよく夢をみる。

姉―――香織が怒っている夢だ。

夕ご飯も食べ終わり、家族揃ってリビングにあるテレビを観ていた。香織は高校の制服を着、
紫織や両親は今と変わらない姿。

まるで、香織が死なずに過ぎていった日常の風景のよう。

今の紫織の一つ上、中学三年。高校一年になる直前で生涯を閉じた香織。それなのに、高校の制服を着た、少し大人びた香織が居た。
家族四人で馬鹿笑いをしながら観ていたテレビ。すると突然香織が電源を切った。

「何すんのよ。」

紫織の口から飛んだ言葉。
香織はまったくと言っていいほど気に掛けず、紫織に向かって静かに怒りだした。

「……………………………あんたが死ねばよかったのよ。」

びくっ と、全身にとてつもない寒気や悪寒が走る。
俯いたまま、紫織に声をかけた香織は顔を上げ

充血し、腫れた目を紫織に向けた。

香織が自殺をした後、警察の手によって発見された時と同じだった。
「なんでよ、なんであたしが死ななきゃいけなかったのよ?
私立高校に落ちたから? あたしだって頑張ったわよ。
『香織ならできる』って、どんなにプレッシャーになるか、ダメダメのあんたには分かんないでしょうね。 一生無理よ。」
ふふっ と、嘲笑うかのように笑みを零し、鋭い目付きで紫織を睨む。
「…できるお姉ちゃんは誇りだった? それとも天狗だとか、調子に乗ってるとか思ってた?」
生前の香織とはまったく違う、恨みや絶望に満ちた表情を浮かべる姉に、紫織は床に座り込み壁にへばりつくようにして必死に逃げる。
「むかつくのよ……………シオ。」
家族や親しい人のみが呼ぶ紫織の愛称『シオ』。
その後、自分の叫び声で目が覚める。

今日も、また。





「………はぁ、はぁっ‥」
息があがる。
精一杯、肩で呼吸をする。
「‥香織、姉………」
宿木香織。
公務員の父と元社長令嬢の母の間に産まれた長女で、たった二歳でピアノをひき始め、勉学においては彼女に勝る者は居ないともいわれるほどの『秀才』
近所ではそれなりに有名で、期待に答えるためだけに産まれてきたようなものだった。
紫織はだらだらと流れ続ける汗を手で拭い、一階のダイニングに向かう。がくがくと膝は笑ったまま、腕や全身は震えが止まらない。
動くことが困難で、やっとの思いで着いたダイニング。力の入らない手でコップを握り締め、溢れんばかりに水を注ぐ。そして一気に飲み干す。
隙間となる口の端から漏れていく水を拭くことすらしず、否、出来ず。ひたすら水道から流れる水をコップに注ぎ、口に入れる。

熱い。

汗は止まらない。必死に肩で呼吸をするが、肺に入っていかない気がした。
熱い、苦しい、辛いーー…   いたい。
そして、ふと手が止まる。

姉も、死んだとき 辛かったのだろうか。

高校に落ちたぐらいで死んでしまうような、柔で弱い姉ではない。

何が辛かった?

死を決意したのは何故?
「………あたし、紫織だから 分かんないよ。」
馬鹿だもん。
出来損ないだもん。
だから、
「死ねなんて……言われちゃうのかなぁー‥」
「…紫織、‥?」
水道の蛇口を握り締めるように掴む左手と、表面に水滴が貼りつくコップを握る右手。
ふと背後から聞こえるはずのない声がした途端、体の震えが止まった。
安心なのか。自分自身気に入らないが、呼吸が段々と落ち着いてくるのが分かった。
「…なに。」
楓の家は共働き。だからしょっちゅう紫織の家に、中学生のくせに泊まっている。幼馴染とは言えど、しょっちゅう家に入り浸ってもらっても困る。
紫織は右手の中の冷たい水を飲み干し、ドアの前で止まっている楓の横を通り過ぎようとした同時に

肩に何かの感触と重みが伝わる。

 それが楓の手だと気付くと、紫織は振り払おうとした。
「…何の夢みたんだよ。」
「‥‥あんたに関係ない。」
嫌だ、触らないで。
「なぁ紫織。何みたんだよ? 最近ずっと、眠れてないんだろ?」
「だから…何よ?」

俺もみるんだ、香織姉が怒ってる夢。

「…ぇ」
正気な様子でない香織が、紫織を追い掛けている。しかし自分は止めることもできない。
そんな悪夢。
「……………一人で抱え込むなよ、シオ。」
 酷く真剣な顔で、楓は紫織の目から視線を外さない。珍しい、楓が怒るなんて。温暖な、大らかな性格の楓が怒るなんて。

「あんたに、何が分かるのよ。」

どうして。
思ってもいないことが、口から滑り出た。
 どうして。どうして反抗するのだろう。
 心配してくれているのは分かっている。楓に当たるのは間違っている。
 
分かっている、はずなのに。

 楓の手を振り払い、紫織は自室へ向かって階段を駆け上がった。
 そしてふと気づいた。
 外は、土砂降りの雨だった。





「紫織、おはよー。」
 いつものように教室へ入る。
 あれからなかなか寝付けず、紫織は英語の予習をし、気を紛らわそうとした。
 しかし、どうしても姉のことや楓のことが頭から離れず、次の予習、宿題、と手をつけているうちに、結局朝になってしまった。
「おはよ、湊。 …沙恵は、?」
「沙恵? あー、朝練じゃない?」
「そ、っか。」
 沙恵に謝っていない。
 昨日から気がかりだった。運のいいことに、楓は朝会わないように出てきて、違うクラスだ。しかし沙恵は、同じクラス。席も近い。

 今、謝っておかなければ。

 沙恵は楓のように幼馴染なわけでもないけれど、楓同然に小さい頃から仲が良かった。
 喧嘩するほど仲が良いとは言うけれど、やはり喧嘩したままなのは嫌だ。気分が悪い。
 それに、昨日の場合

 紫織が一方的に悪かった。

 沙恵は全く関係のない、紫織の私情。ひょっとしたら、誰にでも優しく、心配性の沙恵のことだ。自分を責めているかもしれない。
 紫織は、探しに行こうとしたが。
「もうすぐホームルームの時間でしょ? すぐ来るって。」
 湊に言われ、席に着いた。
 ふと、紫織は窓から外を見た。

 外は、少し雨がしとしとと虚しく降っていた。

 そして思った。
 あたしの涙は枯れてしまったけど、雨が代わりに降ってくれているのだ と。





『紫織、行ってくるわ。』
 外出なんて、勝手にしてたじゃない。どうしてあたしに話し掛けるの。
 不思議に思い、尋ねた。
『…どうしたの、』
『香織が事故にあったのよ、重症だって。だから早く、病院に…』
 何言ってるの。お姉ちゃんが…?
『線路の傍のビル、あったでしょう。あそこの屋上から、落ちたって。』
『落ちた? …なんで?』
『……とにかく、行ってくるから。留守番してなさい。』
 意味が分からない。ビルの屋上? 自殺?
 朝、ピンピンしてたじゃない。真希ちゃんと遊びに行くって出てったじゃない。
 死ぬわけないじゃない。何でよ、何で母さん泣いてるのよ。
 重症? なら助かるかもしれないんでしょう? ねぇ、どうして。

 母さんが病院に着いたとき、香織姉の心音はしていなかった。
 息を吸う音も、吐く音も。香織姉の全ての音が無かった。


 後悔しか、残っていない。
どうして、あの日喧嘩したまま姉は死んでしまったのか。

 別に、誰のブラシで髪を梳いたって良かったのに。どうして、あたしは怒ってしまったのか。





「どうしたの、白石君。」
「あー、うん、ちょっとな。」
 朝のホームルーム直前、朝部活終わりに体育館から出てきた沙恵は、体育館の扉の前で待っていた白石楓に呼ばれた。
 小学生の頃から一緒だった男の子。中学校に入り、男女別々の仲良しグループが出来ていくため、沙恵は久しぶりに喋った楓に尋ねた。
「もうすぐ、ホームルーム始まるよ?」
「…じゃあ、手短に話すわ。」

 紫織と、喧嘩したよな?

「え…」
 喧嘩、というほどのことでも無い。きっと、自分が紫織の嫌なことをしてしまっただけ。
 沙恵は、あまり心に留めていなかった。
「わりぃ、別に責めてるわけでもないんだ。 ただ、誤解をして欲しくなくて。」
「誤、解…?」

 紫織な、まだ立ち直ってないんだ。

「香織さんの、こと…?」
「あぁ、夢を見るらしい。 それに、時期だし。」

 ちょうど、一週間後だっけ。

「そう、だね。 優しくて綺麗な人だった。」
「…紫織、ずっと強がってるんだ。」
「え? 紫織は、昔から強いよ? だってお葬式のときも泣かなかったし…」
「違う、違うんだ。」
 悲しそうな、しかし何かを考えるような目つきをした楓。沙恵は、どうしてここまで紫織のことで楓が必死になるか分からなかった。
 ただの、友達なのに。
 沙恵は分かっていた。紫織がわざと手を振り払ったわけではないことを。
「泣かないのは強いからじゃない。 ただ、強がってるだけなんだ。
あいつは…、」

 無理してる。

「人に肩を触られるのが嫌なんだ。」
「…え? そんだけ?」
 話の筋が通ってない。しかし沙恵は指摘するのを止めた。楓が、真剣な顔で話しているから。
 それを邪魔するように、雨は降り続ける。
「あ、いや、…あー、俺、こういう空気苦手なんだよ。うまくしゃべれねぇ。」
 それから、うー、んー と一人悩み始めた楓。しとしとと降る雨は、渡り廊下の地面に跳ね返り、沙恵は足が濡れることが気になっていた。
「わりぃ、なんでもねぇや。」
「…あ、うん。」
 首を傾げながら、沙恵は教室へ向かった。
 そういえば、香織さんは雨が好きだったな と、一人思い出しながら。





結局、その日紫織は、沙恵と話すら出来なかった。
謝らなければいけないのに。ただ、自分の小さなトラウマのせいで傷つけてしまったのだから。 
憂鬱。外の雨模様と同じ。どうしてこうも、あたしは暗く、悪いほうへと考えてしまうのだろう。元気だけが取り柄だったはずなんだけどな。
湊が一日中、あたしと沙恵のことを不思議そうに見ていたのは知っている。昼休みに質問攻めされたから。
姉が死んでから、楽になったと思っていた。
比べられることもなくなる。でも、違った。きっと、姉が背負っていてくれたから、自分は苦しまなくて済んだのだ。
そう思うと、やっぱり姉は強かった。
心まで弱くなってしまったのか、あたしは。
放課後、部活も無くただ帰路へと急ぐとき。
ふと、目に映ったのは水溜りに映った空だった。
しとしとと降っていた朝、昼過ぎから段々止んできて、夕方には晴れていた。
水面に映る、ゆっくりと流れる白い雲。その背景には夕焼けに染まった、オレンジ色の空模様。
いつか、誰かと見た気がした。
「あいつだ…。」
 そうだ、あいつ。喧嘩したままの楓。
 小学校の帰り道、一緒に見たんだ
 謝っていないな と思いだし、なんであいつに謝らなければいけないんだ と、もう一人の自分が言う。
 楓とは、あまり喧嘩をしたことが無かった。
 女子同士、今回のように沙恵と些細な喧嘩をすることはたまにあったが、楓とはあまり記憶に無い。
 それだから余計。余計に気になる。
「あたしは、悪く…ない。」
 楓の家を睨み付けるように見、紫織は自分の家へ入った。
 もちろん、ただいま の一言は家に響かなかった。





「シオ…」
 最近、夢がさらに悪化してきた。
 香織は両親までも夢の中で傷つける。
 プレッシャーに勝つ、頂点に立つ、全てをこなす為の努力を

 たった一回の失敗で、全て否定された。

 夢を見始めたころ、紫織は恐かった。
 天才ではないあたしが生きていることを、姉が恨んでいると思っていた。
 しかし最近は、違う思いを抱き始めた。
「むかつくのよ、シオ。
………………………………………羨ましいのよ。」
 夢の中で、姉が紫織にうらやましい と言ったから。
「期待に添えなくても怒られないし。
何をしたって、あんたは許されてた。」
 紫織からすれば、見放されているとしか思えないのに。
 期待に沿うことを全てとしてきた姉にとっては、自分の自由なことが出来る紫織が羨ましいのだと、最近思ってきた。
 姉に、香織姉に答えなくては。
「香織、姉…あたし、」

 ……り! 紫、織??!

「‥楓、?」
「紫織?! 随分魘されてたぞ?!!」
 気が付けば、紫織のベッドの側で、楓と母が居た。
いつ以来だろうか。久しぶりに楓のことを、名前で呼んだ気がする。
毎年この時期には、紫織の精神状態はおかしくなる。まだ、香織の死に縛られているからだ。
香織のように真面目な人、香織のように天才な人。

また、比べられるようで。

貶されるようで。

恐い。
もしかして、自分は姉に恨まれているのではないか。
考えないようにいつも生きていた。でも、どうしても思い出してしまう。この時期になると。
それに、姉が自分のことを羨ましく感じていたのかもしれない。
一人では抱えきれない謎が、頭の中を巡っていた。
両親でさえ、反抗期だから と紫織を理解しようとしない。見ようとも、話そうともしない。
それなのに、楓が理解してくれたことが嬉しかった。
 しかし、理解してくれていたのに、答えられなかった自分が悔しかった。
「…楓。」
「本当に大丈夫か?」

「大、丈夫。 …お姉ちゃんは、大丈夫。」

「?」
 紫織は、自分の中の心の靄が、少し晴れた気がした。





葉が青々と色付き始めた日の朝。
六月に入り、着々と見た目からも涼しげな夏服に変わっている。
じめじめする梅雨の時期、暑い冬服に湿気がこもるよりも、半袖で直に湿気がつくほうが、まだましだ。
宿木紫織は、一枚のプリントを睨むように見、ダイニングテーブルに置いた。
『進路』『夢』そんな言葉で溢れているそのプリントは、紫織にとって迷惑で仕方がなかった。
「‥高校、か。」
紫織は来年受験生という現実を重々しく実感した。何故、時間は過ぎてしまうのだろうか。
 それに来年。まだまだの話なのに、追い討ちを掛けるように現実は迫ってきている。
「紫織‥進路決まったの?」
母親の仕事である家事を、もう何年も経つのに覚束ない手つきでこなしていく母、宿木早智。中学に入ってから会話らしきものは一切と言えるほどしていなかった紫織は、今朝突然話し掛けられたことに驚いていた。
「‥まだ、だけど。」
大した会話もしないまま、学校で貰ってきたプリントはいつもダイニングテーブルの片隅に溜まっていく。その中からつい先程まで紫織が持っていた学年通信を早智は持ち、紫織に尋ねてきた。
「そう‥‥。」
言葉を続けるわけでもなく、早智は流し台に再び向かった。
いつも通り『いってきます。』の一言を呟くこともせず、紫織は家を出た。

変だ。

早智が話し掛けてくるなんて。
名前で―――紫織と呼ぶなんて。
今迄娘の、特に紫織のことにはまったくと言っていいほど興味の無かった母親だ。
妙だ。何かある。
肉親に対してそんなことを考えてしまうのは、紫織が両親を信用、当てにしていないことや、人自体を信用していないことが関係している。
直したほうがいいということは、一番自分が分かっている。
でも直せない、直そうとしても、直らない。

こんなあたしになったのは、香織姉のせいだ。

ふと考えてしまったことに紫織は苛立ち、眉間に小さな皺がよった。
また心に薄く靄がかかった。
そんなことを考えてしまう自分と、考えさせる姉の存在に。
人のせいにしてしまう、弱くなった自分に。





「なぁ…聞いてるか、紫織?」
「・・・聞いてるわよ。 馬鹿にしてんの?」
 挑発的に答える紫織に、楓は駄々を捏ねる子供に困った母親のように困った顔をする。
「あのなぁ、お前いい加減その言葉遣いとか態度とか…気をつけろ ってか直せ。」
「あんたに言われたくない。 見た目明らかに染めましたー的な茶髪だし。
不良っぽーい。ガキ大将みたいじゃん。」
「それを言うな。 結構気にしてんだよ。」
 地毛なのに と勝手に落ち込み始める楓に、紫織は思わず小さく笑みを零す。
 小さい頃からそうだった。特別、何か出来るわけでもない子供に、楓や楓の両親は、プレッシャーなどかけることもしない。

 のびのびと育ってくれればいいから と。

 紫織の家とは正反対で、紫織はいつも羨ましかった。
 優しく、陽だまりのように包んでくれる。この親の子だから、楓はこんな性格なんだ と思う。
 突然、ふと思い出した紫織は、楓に尋ねる。
「ねぇ、あの夜。 なんで母さんまでいたの。」
「あー…、あれ、ね。
本当に一番心配してたの、早智さんなんだよ。」
「…は?」
 魘される紫織を一番に発見したのは、早智だと、楓は言う。
 紫織は信じられなかった。ありえない。
 登校時間、校門が閉まりかけたことに気が付いた楓は、一人考え込む紫織に声をかけ、走り出した。

 楓といい、母といい
 何を考えているのだろうか。

「もう、三日経ったぞー
いい加減仲直りしろよなー。」
 校門へと飛び込んだ楓は、振り返って言う。
「うるさいわドアホ!」
 分かっている。
もう、傷つけないためにも、謝らないといけない。沙恵に。
 ひっどー と、情けない顔で言った楓を目掛けて、紫織は鞄を投げ、自分も走りながら校門へ飛び込んだ。
「分かってる、分かってるって。」
 自分に言い聞かせているのか、紫織は繰り返した。
 鞄をキャッチした楓から鞄を奪い、紫織は玄関へ走った。
「人の親切、感謝しろよー!」
 相変わらず、こいつはお節介だ。





 楓と別れ、廊下から教室へ入る。
「あ、おはよう! 紫織。」
「‥おはよ、湊。」
 一番に声をかけてきたのは、湊。
「あ、沙恵ー、紫織来たよー?
何か言うことあるんじゃないのー?」
 湊が、自分の席で読書をしていた沙恵を呼ぶ。
 違うよ、湊。言うことがあるのはあたしなの。
「あ、紫織。」
「……沙恵、あのさ。
ごめんなさい。」
 沙恵の口から、聞きたくなかった。
 自分が悪い。過去に囚われて、現実を見ていない自分が悪かった。
「あ、‥うん。 わたしもごめん。」
 気まずい沈黙は素早く通り過ぎ、へらっ と笑った沙恵を見て、紫織もつられて微笑んだ。
「紫織、肩に触られるの嫌いなんでしょ?」
「…え?」

 白石君が言ってたの。

「楓、が?」
「うん。」
 何を考えているんだ、あいつは。さすがお節介。
「理由は分かんないけど、言ってた。
紫織のこと、心配してるんじゃない?」
「そうかな。」

「よかった、よかった。
二人が変な空気だと、アタシも気まずいんだよ。」

 突然話に入ってきた湊は、紫織と沙恵の肩を叩いた。
「あ。」
 沙恵が気まずそうな顔をする。
「…ごめん、湊。」
 しかし、紫織は平気な顔で、湊に答えた。
「大丈夫だよ、沙恵。」

 あたし、もう負けないから。

 紫織の言った意味が分からず、湊は首を傾げた。沙恵は、何か決心をした紫織を見て、嬉しそうに微笑んだ。





 あたし、もう負けないから。
 ふと、沙恵に向かってあたしの口から滑りでた言葉は、自分が一番よく分かっている。
 姉が背負った沢山のプレッシャー。期待、願い。両親や周りから生まれた思い。
 ひょっとしたら、あたしも何か与えていたのかもしれない。
 そう思うと、不安になった。
 人の行動、言葉、些細なことで人の生き方さえ、思いさえ、運命さえ変えてしまうことが出来るのだ。
 人の影響は、偉大だ。
 優しい楓の家族は、それを理解しているのだろう。共働きで、家に居なくとも。
 紫織の両親は、家にいるものの、人に頼りすぎた。
 少し前、紫織に父は言っていた。
『父さんは昔、あの高校へ入りたかったんだ。』
 頭のいい私立高校。自分の進学への願いを、娘に託したのだ。
 人は助け合いながらしか生きてはいけないと思う。
でも、自分の考えを人に押し付けるのは、間違っている。
父さんの思いを叶えようと頑張った姉は、優しかったのだ と、紫織は思う。
誰よりも人の幸せを願う姉だからこそ、父の願いを裏切るようなことをしたくなかったのだと。
今思えば、姉の存在は偉大だった。
自分の持ってないものを持っていた。それは、人一倍の努力があったから。
一人で頑張ってしまった姉。両親は、それを理解しているだろうか。
そして、ふと思い出す。

何故、今朝早智は話し掛けてきたのだろう。

 もしかして、自分に話をしようとして来たのではないか。
 考えられるのは、またあのお節介が何か言ったのだろう。
 本当に、人のことばかり心配するやつだ。
 もう負けない。今日誓った。
 それは、姉の頑張りを裏切りだと思われないように、両親の思いを変えることだ。
 叶うならば、姉の思いを引き継ぎたいと思う。
 自分を必要としてくれる人のために、願いを叶えるのもいいことかもしれない。

 あたしには、支えてくれる人がいる。

 姉を一人で悩ませないように支えられなかった自分。
 人の気持ち、自分の気持ち、いつか姉も許してくれるだろうか。
 悔やまないように。新しく歩みだす道。
 少しは反抗せずに頑張ろう と、紫織は心に誓った。
 教室から見えた空は、夏を待たずに燦々と照りつける太陽と、静かに流れる白い雲が広がっていた。

 空のように、心大きく偉大な人に、自分はなりたい。









ついに完成!!

           夏休みの宿題にします。


           ありがとうございましたっ
              09/08/27        

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