短編小説

□春一番
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春一番が吹いたと天気予報が伝えた翌朝の出来事だった。

冬が終わり春が来ると、聞いた昨日は思っていたのに今日の気温は昨日よりも1度から2度低いらしい。

流石に外で息を吐いても白くなるわけではなかったが、確かに昨日よりも寒い気がした。

駅のホームには私と同じように電車を待つ会社員や学生が寒さを堪えて立っていた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ場所。
皆が皆、手にしている携帯電話や音楽の世界に集中しており、私も気に入った作家の本を読もうとしていた。

しかし、視界の端でいつもと違う何かが動いた。
そちらを向いてみると、駅のホームに設置されたベンチに小学生低学年と思われる少年が座っている。
時間は午前7時。遠方の私立の小学校ならば丁度良い時間だろうが、その子供はランドセルどころか手荷物は何一つ持っていなかった。

なおかつ、服はそれこそ私服だが肩には毛布がかかっていた。
いくら厚着とはいえ、まだ冬の寒さの残るこの時期にここで寝ていたのではないかと心配になった。
周りにいる人間はちらちらと少年の方を気にかけてはいるものの、話しかけようとはしない。

気になるけれど、干渉しない。最近はそういった態度の人間がほとんどだ。
斯く言う私も周りの空気に合わせて過ごしてきたが、今回はなぜかそんな空気に合わせていられないという気になった。
なぜそんな気分になったかは自分でもわからない。
ただ、その少年が俯いてぼーっとしている顔が青白かったからなのかもしれないし、どこかの誰かと似ていると思ったからかもしれない。

そんな気分のまま、私は少年に「君、どうしたの?」と話しかけてみた。
少年は俯いていた顔をこちらに向けると、しばらく私の顔をじっと見つめていた。
その目はやはりどこか虚ろで焦点が合っておらず、肩は少し震えている。
少年は再び俯くと「お母さんと妹を待ってるの。」と、ぽつりと寂しげに呟いた。

これは何かあるな、と思い、少年が怖がらないよう前でしゃがんだ。

「いつから待ってるの?」と尋ねると、またしばらく間が空き「ずっと前から。」とまた呟いた。

それから「ちゃんと寝た?」だとか「寒くないの?」だとかいくつかやりとりをして、わかったことがあった。

少年の父は仕事が無くなり、暴力を振るうようになったという。母は少年とその妹を連れて電車で逃げようとしたのだが、このホームで電車で乗ろうとした丁度その時に、家を出た事に気が付いた父が3人を追ってきて少年の腕を掴んだ。母と妹は先に乗っていたのでそのまま出発してしまい、少年だけが父の元へ残ってしまったらしい。
その父は、少年を助けに母と妹は帰ってくるだろうと踏んで「母と妹が帰って来たら2人を連れて家に帰って来い、それまで駅で待っていろ」と少年に言ったそうだ。毛布1枚と菓子パン3つだけ持たされて。

少年はがりがりに痩せこけ、明らかに顔色が悪い。いったいどのくらい長くここで待っているのだろう。
おそらくそれすらわからないほど待ち、衰弱しているに違いない。

私は少年に私の家に来るよう誘ったが、彼は頑なにそれを拒んだ。
少年の家は駅のすぐそばにあり、家の窓から父はこちらを見ることができるので、居なくなればすぐにわかるという。

そうこうする内に、もうすぐ電車が来るという合図の音が聞こえた。
この駅は田舎と都会の間にある小さな駅なので、アナウンスも流れなければ駅員もいない。

私はここまで話を聞いて、このまま会社でゆっくりコーヒーを飲めるはずが無い、と思った。
この少年の父は、家庭で暴力を振るい子供の世話を放棄した事について警察の世話になってもおかしくない。
会社の事などどうでもいい。
今はただ、目の前の少年を救ってやりたいという気持ちにしかなれなかった。

ようやく電車が到着して、ドアが開く。ぞろぞろと人が動いて会社員や学生は電車へ乗っていき、降りる人はほとんどいなかった。

それでも降りてきた数人がいて、それを見た少年は目を見開いた。
「お母さん!ハルカ!」
少年は叫ぶと、手を繋いだ母娘の所へ走り出す。
「ああ、コウタ!」とその母も叫び、しゃがんで少年を強く抱き締めた。

「寂しい想いをさせてごめんね、私、準備してたの…。」母は少年を放して、頭を撫でながら言った。
「兄ちゃん、迎えに来たよ!」と無邪気に少年の妹は笑った。

この再開は私も予想しておらず、咽び泣く親子を見て、今までの少年を救いたいという己の感情も、他人の事情に首を突っ込みすぎたのではないかと少し恥ずかしくなった。

電車も去って、周りも静かになる。
私の役目も終わりかと思った矢先に、少年が照れくさそうに
「おじさん、お話きいてくれてありがとう!」
と私に言ってきた。
少年が自ら私に話した事は一度も無かったし、感謝されるような言葉は何一つ言った覚えが無い。
「初めて話しかけてくれて、ありがとう!」
そう少年は続けた。

そうか、今まで誰も話かけなかったのか。
気にしてはいるけど、干渉しない、見て見ぬふり。
父から受けた苦しみと、それを誰にも言うことができないという二重の苦しみから、彼は脱したのだ。

何だか彼を救うことができた気がした私は、彼に一言「元気でね」と微笑んだ。
手を繋ぐ親子を見届け、あと20分後に来る電車を待つことにした。

こうして一段落つくと、私には今まで考えもしなかったある疑問が浮かぶ。
私は平日だけとはいえ毎日ここへ来て電車に乗るのに、どうして今まで彼に気付かなかったのだろうか。
少年にいつから待っているのかと尋ねた時、確かに彼は「ずっと前から。」と言ったのに。

もしかすると、少年は「ずっと前」から私の視界の端に居たのかもしれない。「ずっと前」から誰かに苦しみを知ってもらいたかったのかもしれない。

嗚呼、私は仕事が大変だから自分の事だけで精一杯だったし、自分の世界に閉じ籠ってしまう周りに合わせるためだけに本を読んでいたからだ。
だから気が付かなかった。
天気予報で昨日春一番が吹いた事を知ってから周りを見て、ようやく視界の端で少年をとらえたのだ。
私は、昨日春一番が吹いた事を心から喜んだ。

こうして私は危ない所で仕事に遅れずに済無む事ができ、女性社員の入れてくれたコーヒーを飲んで一息ついた。
今日は、家に帰ったら妻に毎日の弁当の礼を言おう。思春期に入ってから話さなくなった娘にも話しかけてみよう。

そんなこんなで昼時間になり、談話室へ向かった。ここで昼のニュースを見ながら愛妻弁当を食べる事は、私の日課になっている。

今日の昼のニュースの最初は、とある駅の近くに住む女性が暴力を振るう旦那を刺し殺したという臨時ニュースからだった。
その旦那は見たことのある顔で、私が以前リストラした部下だった。

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