短編集
□第4章 破滅への予兆
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真弥の妻になったのは、まだ日暮れ前の早い時間だった。
場所が郊外ということや季節的な問題もあり、彼なりに気を使ってくれたらしい。
そういうの常識なんて瑠璃は知らなかったけれど、妻になった後の真弥の科白を信じるなら、こういうときにすぐに傍を離れ放り出すのは、夫として最低な行為なのだという。
目覚めるまで傍にいて、腕の中で目覚めさせて、そうして朝までを過ごす。
それが当たり前なのだと言っていた。
瑠璃の立場上、それができなくても、せめて妻に迎えた後に心細い想いをさせたくないと、真弥の妻になったことを後悔させたくないと、彼はそれは気遣ってくれた。
巫女が夫を迎えることが禁じられているのは、俗世の汚れを知ることで、その能力が失われるからだと言われている。
事実、瑠璃もそう言われて育ったし、だからこそ禁忌を犯してはならないと言い聞かされてきた。
そのときは死罪だと殺されると言われ続けてきたのだ。
真弥は瑠璃のことを巫女としては見ていないのか。
力については特になにも言わなかった。
落ちたのかと気にすることもなかったし、力のあるなしには拘ってはいないようだった。
むしろ巫女ではない、ひとりの女の子として見てくれているらしく、あまり特別扱いはしない。
ただ無事に脱出するまでは、勘づかれないようにしてほしいと言っていた。
力の有無ではなく、真弥との関係に気づかれないようにしてほしいと。
だから、自分から言うつもりはなかったのかもしれない。
彼の性格からして世間知らずな瑠璃を騙してたぶらかすつもりなどなく、純粋に脱出するまでに悟られたら、瑠璃の身が危ないと気遣ってくれたのだろう。
そのせいだろうか。
瑠璃も彼と別れ神殿に戻るまでに力が消えたとか、そういう話はしなかった。
故意に。
言えばたぶん彼をもっと不安にさせたから。
「巫女の力」
神殿の近くまで戻ってきてから、ふと掌を見る。
失われるべきものなのかもしれない。
こういうとき、本来なら持っていてはいけない力なのかもしれない。
人にあらざる力は人となったとき、失うべきものなのかもしれない。
もしも人並みの幸せを欲するのなら。
「ねえ。わたしはどうすればいいの? このまま知らないフリをするべきなの? こんなとき、だれも答えをくれないわ。神ですら道を指し示してはくれない」
泣きたかった。
切なくて……。
いつものように留守をごまかしてくれていた由希の元に戻ると、彼女はほっとしたように笑った。
いつもより戻ってくるのが遅かったので、バレたのではないかと、もしくは瑠璃の身になにか起きたのではないかと、気遣ってくれていたらしい。
苦い笑みを彼女に返した。
「どうかなさったのですか、瑠璃さま?」
疑ってなどいない由希の信頼の瞳。
気遣ってくれる瞳。
たった今、彼女を裏切って彼女の一番大切な人を夫に迎えたというのに。
どうするべきか、すぐには答えを出せそうにない。
真弥は関わるなと、これは自分の責任だと言っていたし、彼の思いやりを無にする決意もできなかったから。
でも、それを受け入れて知らないフリを続ける決意も、やはり瑠璃にはできなかった。
どうするべきなのか、ゆっくりでもその答えを出さなければいけないだろう。
どんな結果になっても後悔しないだけの決意ができたら。
それは二重に由希を裏切る決意なのか、それとも真弥を裏切る決意なのか、瑠璃にはわからなかったけれど。
知らないフリをして残酷に、自分の望みに従うためには、瑠璃の力が邪魔だった。
だから、苦しい。
だから、切ない。
真弥にすら言えなかったことだけれど。
「由希」
「はい?」
「今日、あなたの住んでいる村に行ったわ」
「え?」
なにを言いたいのかわからないと由希の顔には書いていた。
「噂を聞いたの。あなたの噂」
「どんな……」
「あなたが今していることの噂よ。心当たりがないの?」
悔しそうに唇を噛む由希に、瑠璃はため息をつく。
これだけは今、言わなければと思っていた。
彼女を本当の友達だと思えるなら。
「嘘だと思ったわ。わたしのよく知っている由希なら、そんな真似はしないとも思ったわ。でも、話を総合していくと、どうしてもあなたになるのよ」
「瑠璃さま」
「村長ですら適わない大富豪のひとり娘。そして由希という名。年齢。すべてあなたを意味していたわ。どれほど自分の耳疑ったかわかる?」
「あたしは……」
顔をあげてなにか言いかけた由希を、じっと見つめる。
それだけで彼女はなにも言えないようだった。
「わたしにはあなたの気持ちはわからないわ。結婚することなんてありえない巫女だもの。すっと想いつづけてきた人に断わられたあなたの辛さは、どんなにわかってあげたくても、わかってあげられない」
「なにをおっしゃりたいのですが、瑠璃さま?」
挑戦的な眼だった。
譲らない口調だった。
今になって真弥の言葉の正しさを知る。
瑠璃はまだ本当の由希を知らない。
由希はただ瑠璃の方が立場が上だから、自分が仕えるべき立場だから、だから、本当の自分を見せていなかったのだと。
あるいは由希の友情だと信じていたものは、ただの優越感からくる同情だったのかもしれない。
そんなことはないと信じたくないと思うけれど。
「答えはあなた自身が気づくべきことよ、由希。けれど、一言だけ言っておくわ。そういう問題ではなくても、強制では人の心は動かないのよ」
「……なにもご存じないくせに初恋すら知らないくせによく言えますね。それも巫女としての託宣ですか」
侮蔑と揶揄の混じった口調。
眼を逸らしたかったけれど、これが本当の彼女だと、まっすぐに捉えた。
ある意味で今、初めて本音で触れあっているのだとわかるから。
「わからないの? あなたは人の心を無視しているわ。人の生きるべき標を誤っているわ」
「……あなたにはわからないことです。放っておいてください」
「そうね。でも、あなたを友人だと思うから忠告しているのよ?」
「……」
「あなたのやり方は逆に相手を傷つけて遠ざけるわ。きらわれるわ。それがわからないの?」
ここまで言っても由希の表情は変わらなかった。
なぜそんなことを言われなくてはいけないのかわからないと、その顔に書いて瑠璃を睨んでいた。
本当に彼女の心には自分が間違っているのかもしれないという考えそのものが、欠如しているのだと思い知らされた。
「今日はもう帰って、由希」
「瑠璃さま……」
「これ以上なにを言っても、あなたの心にわたしの心は届かないでしょう?」
「あたしは……」
なにか言いかけて、でもなにも言えずに、由希はそのまま瑠璃の部屋から出て行こうとした。
その背中に視線だけを向けて、瑠璃は一言だけ問うた。
「由希。あなたがわたしに優しくしてくれたのは、わたしが信じていたようにあなたの純粋な友情ではなく、束縛され自由のないわたしに対する、ただの同情だったの? あなたよりわたしのほうが不幸だと優越感を抱けたから、同情して優しくできたの?」
否定してほしかった。
一言違うと言ってほしかった。
でも、由希は一度だけ振り返り嘲笑った。
「そうですね。そうかもしれません」
「……」
「所詮あなたはただの籠の鳥でしょう?」
それが由希の本心なのか、それともさっきまで責められたせいで、疑われたことから、そう言ったのか、瑠璃にもわからなかった。
いや。
わかったと言うべきだろうか。
これは彼女の本心。
けれど、すべてでもない。
瑠璃を気遣って優しくしてくれた友情もまた本物だった。
ただその根本にあるものが同情だったというだけのことだ。
だから友情なのだ。
由希はあまりに甘やかされて育って、好意を示すことに不慣れだった。
人に好かれることを知らず、背かれることも知らず、自分が立っている場所もわからない。
そんな由希が憐れだった。
「……可哀相な人……」
思わず零れた呟きを由希はどう受け取ったのか、なにも言わず出て行った。
どうして疑われたのか、そのことにすら気づかない。
なんて可哀相な少女だったのか。
あれでは本当に孤独なのは彼女の方だ。
少なくとも瑠璃はひとりぼっちではないのだから。
今までなら由希がいたし、彼女の友情が半分くらい同情でも、一緒に過ごした時間は嘘じゃない。
そして今は愛してくれる夫がいる。
でも、彼女にはなにもない。
本心から気遣ってくれる人もいなくて、愛してくれる人もいない。
本当に孤独なのは由希の方だった。
今になってそのことに気づいてため息が出る。
もっと早く彼女が子供の頃に、それを知ることができたら、瑠璃にもどうにかしてやれたかもしれない。
でも、人格が形成された今、もうどうすることもできない。
どんなに誠意から言葉を尽くしても、由希には理解できないのだから。
彼女の想い人が真弥だと知っている今、あんな助言をすることが嬉しいわけがない。
もし真弥を解放したくて、彼女の友情を利用しようとしたなら、もっと上手く説得している。
それをしなかったということは、彼を愛する瑠璃には、ひどく辛いことなのだ。
こうすれば上手くいくと教えるようなものだから。
それでも言ったのは由希への友情から。
けれど、それは通じなかった。
真弥の言葉どおり。
『瑠璃と由希とでは違いすぎる』
そう言った彼の言葉が胸に痛かった。
瑠璃に言われ定時より早く家に帰った由希を待っていたのは、この頃は無視していた真弥だった。
入ってきた由希をじっと見て、一度深いため息をついた。
「明日、この家を出ていくよ」
「え……」
唖然としてから彼を睨んだ。
出ていけないように、住める家が見つからないように、裏から手を回していたはずだった。
だれが由希を裏切ったのかと、そう思ったから。
「住む家が見つかったの?」
「それは由希が一番知っているだろう?」
真弥からの皮肉は初めてで唇を噛んだ。
瑠璃に責められ論されて、どういうわけか友情まで疑われて、今度は真弥に責められる。
どうしてなのかわからない。
だれも由希のしていることに抗議なんてしないし、それで問題が起きるわけでもないのに。
大事なふたりには間違っていると言われる。
何故なのかわからなかった。
「住む家がなかったら、適当に雨露を凌げればそれでいいよ。とにかくこの家を出たいから、ぼくは」
「どうして?」
「どうして? もう君から自由になりたいからだよ、由希」
はっきり言われて息が詰まった。
優しい真弥はだれかを責めたり否定したりしなかったから、はっきり迷惑だなんて言われるとは、これまで想像すらしなかった。
信じられないと彼を凝視しても、真弥は顔色ひとつ変えなかった。
それが変わらぬ決意だと教えるように。
「君は何度言ってもわかってくれないね。どうしてぼくがこの家をこんなに早く出ようとしたのか、一度だって考えようともしなかった」
「……どういう意味?」
「自分のためじゃないよ。君のために出ていこうとしたんだよ、ぼくは」
「あなたがいなくなることのどこがあたしのためだっていうのよっ!?」
「君がどんなにぼくを想ってくれても、ぼくが由希を選ぶことは絶対にないよ。由希に想いを寄せることはありえない。そんなぼくが近くにいて、由希のためになると思ってるのかい、君は?」
「っ!!」
屈辱だった。
こんなふうに言われるとは思わなかったから。
これではまるで由希のことなど意識する対象にもなれないと宣言しているようだ。