短編集
□第4章 破滅への予兆
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「まだわからない? みんなそれを恐れて、なにを言われてもきみに従っていただけだよ、由希。由希が大事にされていたのは、おじさんの威光。きみへの好意じゃない」
「真弥」
「ぼくはもっと幼い頃から、そのことには気づいていた。どうしてみんながきみに従ってみせるのに、根のところでは合わせないのか。気遣うことすらしないのか。
そしてそんなみんなを増長させたのが、きみのどんな態度なのかすべて知っていた。だがら、昔は何度もこんな言い争いをしただろう?」
「あ……」
遠い幼い日を思い出して由希が絶句する。
たしかに同じようなやり取りをした時期があった。
もう忘れかけていたけれど。
真弥の説得はまだ続いた。
真弥が幼すぎて由希を説得するには役不足だったこと。
由希のためを思うなら父に相談して任せるべきだとわかっていたこと。
でも、当時から真弥は諦めるのが早かったから、両親を亡くしてから諦めることで生きてきたから、そのときもすぐに諦めてしまったこと。
その理由こそ説得しても由希が理解しないとわかっていたからだと言われ、由希はもう答える言葉がなかった。
「今なら間違っていたことがわかるよ。こんな事態になる前に間違いは間違いだと、どれほど対立しようと指摘するべきだった。そうしたら今頃由希はひとりぼっちにならなかった。そう……気づいたから」
真弥の口調は真摯で彼が本心からそう思っていることが伝わってくる。
なにを言っても見せていた真弥の微笑。
あれは……諦めからきていた?
同意でもなんでもなかった?
すべてが由希の思い違い?
「由希」
父の声に振り向けば、ここまでひどいことを言われているというのに、怒っている様子はなかった。
それが尚更由希を追い詰めた。
「わたしもね。気づいていたんだよ。由希がどういう境遇にいるか。何度かは諭そうと思ったけれど、真弥と同じ理由から諦めていたんだ」
「父さんまで」
「由希は周囲の本音がどうであれ、否定されたことがないから、間違っていると言われても受け入れなかっただろう?
理解する姿勢すら見せなかっただろう? だから、娘がどんどん孤立していっているのがわかっても、わたしたちにはなにもしてやれなかった」
「……」
「その余波がすべて真弥にいっていることにも気づいていた」
「え?」
どういう意味かと彼を見たけれど、真弥は自分のことについては、なにも言わなかったのである。
父の言葉を信じるなら、自分の被った被害については、文句ひとつ言わなかったのである。
それが父の言葉を肯定する形になっていた。
真弥の言動は意地悪でもなんでもなくて、本当に純粋に由希への思いやりだと。
「真弥が独り立ちしたいと、この家から離れたいと言ってくる気持ちも、わたしたちには理解できた。いつか言い出すだろうと思っていたよ。そうさせたのはわたしたちだ」
「……父さん」
「もう解放してやりなさい。真弥は十分耐えてきた。きみのためにたくさんのものを犠牲にしてきた。これ以上を望むのはただのワガママだ」
泣きたくて泣けなくて、それでもなにも言わない真弥を見ていた。
「おじさん。色々とお世話になりました。明日この家から出ていきます」
「……そうだね。止めることはできないけれど、ささやかな祝いだ。家を用意しておいたから」
「でも」
「由希のためにここまで言ってくれたのは真弥だけだ。感謝しているよ」
「おじさん」
「できれば由希の気持ちに応えてあげてほしかったし、わたしとしても真弥を本当の息子にしたかったけれど、これ以上は望めないね」
実の子供にという申し出も、小さい頃から何度もあった。
そのすべてを断り続けたから、由希の問題から離れて説得しても無駄だと知り尽くしている口調だった。
迷ったが真弥は言っていた。
今まで育ててくれた彼への恩義を無にしないために。
「そうできればよかったと思います。でも、ぼくはもう……」
「恋人でもできたかい?」
父の優しい問いかけに由希は衝撃を受けた顔で真弥を見た。
想い人がいるらしいとは聞いているが、付き合っているとは聞いていなかったので。
「命懸けで愛している人がいます。命懸けで愛してくれている人がいます。これからのぼくはその人のために生きたいと思っていますので」
「そうか。幸せにおなり。いいね?」
それが餞別の言葉だと知っていた。
頷いたけれど真弥の決意を知ったら、彼はどう思うだろうか。
部落を護る巫女を連れて逃げるつもりだと知ったら。
でも、譲れないから。
この生命を捨てることになっても、この恋は捨てられない。
世界中を敵に回しても。
真弥の決意は表情に出ている。
由希は顔も知らない彼の恋人に嫉妬した。
理不尽だろうが間違っていようが構わない。
赦さない。
そう心に誓っていた。
破滅の足音が聞こえる。
途切れることなく、でも、しっかりと聞こえてくる。
悲劇の幕を開けるのは常に人の愚かな嫉妬や羨望なのかもしれない。
だれが悪いわけでもない。
ただわたしにはこうする以外に術がなかった。
心は決まった。
真弥も裏切れない。
でも、友達としての由希も裏切れない。
わたしは何故ここにいるのだろう。
失われるべき力。
忌まわしき楔。
それでもわたしは最期まで誇りを持って生きるでしょう。
誇りを持ってそのときを迎えるでしょう。
祈りよ、どうか天に届いて。
わたしの最期の望みを聞き届けて。
どうか……あの人を護ってほしい。
それだけがわたしの生命を懸けた願いなのだから。
真弥と愛し合って夫婦となってから、彼とは何度となく逢っていた。
彼との逢瀬の時間はとても満ち足りていて幸福だった。
結ばれる度にささやかれる愛の告白が嬉しかった。
そうして結ばれる回数が増えるほど瑠璃は力が増してくるのを感じていた。
もしかしたら瑠璃は歴代の巫女と、なにからなにまで違うのかもしれない。
瑠璃にとって真弥との関係は、彼愛されることで力は増幅される宿命を持っているようだった。
力が鋭くなればなるほど、瑠璃には由希の気持ちがよく視えた。
どれほど純粋に真弥を愛していたか。
どうして孤独になるのかわからずに困惑していたのか。
今の瑠璃には手に取るようにわかる。
だから、決めたのだ。
真弥も由希も裏切れない。
そのために自らを滅ぼすことになっても、どちらかは選べないのだから、自分に正直に生きようと。
例えそれで……生命を堕とすことになろうとも。
「ねえ、真弥」
森が雪景色に染まる頃、瑠璃はいつものように真弥に甘えながら、不意に夢見るように口にした。
「可愛い赤ちゃんが欲しいわね?」
「瑠璃」
狼狽した真弥が赤くなったり青くなったりして取り乱している。
「貧しくてもいいの。大切なあなたと愛する子供たちに囲まれて平穏に暮らすの。特別なものなんてなにもなくていい。愛するあなたと子供たちに囲まれて暮らせたら……どんなに幸せでしょうね?」
「これから叶えられる夢だよ、瑠璃。叶えられるように命懸けで努力するから」
「……そうね」
瑠璃の複雑な声の意味にも気づかずに真弥は笑って付け足した。
「失えないものなら生命に換えても護るしかない。ぼくはきみとこれからぼくらが得る子供たちのために生命を懸けるよ、瑠璃」
真摯にささやかれる真弥の決意に瑠璃は胸の内で答えた。
(わたしにはその一言で十分。あなたを愛して、そしてあなたに愛されて、わたしは幸福だったわ。だから、どうか……わたしの裏切りを許してね、真弥)
最後にと決めた真弥との逢瀬から戻ってすぐに瑠璃はこのところ、お互いに避けていた由希と正面から向き直った。
由希は相変わらず瑠璃の外出の片棒を担いでくれているし、避けてはいるものの、あのときの発言を後悔しているのか、時折居たたまれないような目をして顔を背ける。
そんな彼女に気づいたから、尚更瑠璃は裏切れないと思った。
彼女を裏切って自分だけ幸せな逃避行に走ることなどできそうになかった。
それがやがて悲劇を招くとしても、瑠璃は由希に生命を預けようと決めていた。
ほんのすこしでも瑠璃を友達だと思ってくれていたら、由希は思い止まってくれるかもしれない。
もしくは友達だと親友だと思っていたからこそ、裏切りが許せずに激情のままに突っ走るかもしれない。
でも、そのどちらだとしても瑠璃は静かに受け入れる覚悟だった。
それが真弥への愛の証。
そしつ由希への偽りのない友情の証なのだから。
「ねえ、由希?」
不意に声をかけられて由希が戸惑った表情で振り向いた。
後悔と焦燥と言葉にならない色んな気持ちが由希のの瞳に浮かんでいる。
「あのときにあなたの友情の意味は聞いたわ」
「……瑠璃さま」
後悔しているのか、由希の声はとても苦かった。
「それでもわたしはこう思うの。あなたの友情の根底にあるものが、わたしに対する同情だとしても、あなたほど自尊心の高い少女が、それだけの動機であれほど親身になってくれるわけがないわ。だから、あれはそういったことが不得手なあなたなりの最上級の友情だったと、わたしはそう思うのよ」
「瑠璃さま」
由希の声は泣き出しそうだった。
もう許してもらえないと思っていたのかもしれない。
でも、これから瑠璃が告げる内容を聞けば、おそらく由希の感想はまた変わるだろう。
今度こそ手酷く裏切ったと判断して、ひどい罵声を浴びせられるかもしれない。
それでも彼女を友達だと思うなら、避けて通ってはいけない道だった。
「わたしはあのとき、あなたを説得するときに、こう言ったわね? 結婚することなんてありえない巫女だから、あなたの気持ちはわからない、と。わかってあげたくても、わかってあげられないと」
「……なにをおっしゃりたいのですか?」
わからないと小首を傾げる由希に、瑠璃は苦い気持ちで言を継いだ。
「あれは……嘘よ」
「え?」
言葉の意味がわからないと、由希の顔には書いていた。
「わたし……愛している人がいるの」
「瑠璃さまっ。それはっ」
仰天する由希に瑠璃は静かに答えた。
「ええ。絶対的な禁忌よ。巫女としては赦されない大罪だわ。でも、わたしだって普通の女の子よ。だれかを好きになって何故いけないの? 彼を夫に迎えたことを、わたしは悔やんではいないわ」
「お生命と引き換えなのですよ? それなのに」
「そうね。それでもいいと思っているわ」
微笑む瑠璃の無謀さが、そしてそこまでだれかを愛せるということが、由希には信じられなかった。
愛する人を夫に迎えたと言った。
すなわちバレれば極刑を意味するのだ。
聡明な瑠璃がそれを知らないはずがない。
それでもいいのだと言い切った彼女に驚いた。
だが、本当に驚くべきことは、由希を傷つける現実は、このあとに用意されていた。
「真弥を…………愛しているのよ、由希…………」
この一言を聞いたとき、由希は幻聴だと自分に言い聞かせようとした。
それこそ必死になって。
よりによって真弥の妻が瑠璃だったなんて、由希は絶対に信じたくなかったのだ。
「あなたが……真弥の……巫女が夫を迎えれば力が失われ、部落を危機が襲うというのに、すべてと引き換えにしようというのですか?」
感情が激しすぎて却って凍ってしまったかのような声だった。