「――何してんだ、あんた」

キッドは見知らぬ背中に声をかけた。細くて頼りない、振り返りもしない黒い詰め襟姿の男が、風を孕んだカーテンに包まれていた。

学生が消えた春休みの校舎。離任式などの登校日以外は部活の在校生が体育館や部室に直行するくらいのものだ。授業もないのに教室には通わない。
部活帰り、キッドは気まぐれに、校舎の隅々まで散歩してやろうという気になった。卒業生の去っていく姿に、いくらか感傷的になったのかもしれない。自分もあと一年なのだ。踏み込んだことのない教室に行ってみたくなっていた。
来月にはキッドを含む新3年生を迎える教室棟は、今はゴーストタウンのように静まり返っている。廊下に張られた『ありがとう3年生』のポスターは生徒会の作成だったか。キッド自身にはありがとうを言いたい先輩に心当たりはない。背の高い赤頭を見つけては喧嘩を吹っかけ返り討ちにされる人種としか交流らしい交流をしてこなかった。

(まさか飛び下りる、わけじゃねェよな)

開け放った3階の窓から校庭を眺めている男の姿があまりに儚くて、キッドは自殺の瞬間に立ち会ってしまったかと気まぐれの散歩を若干後悔した。

「ああ、――フラれたんだ、俺」
「あ?」

キッドの拍子抜けをよそに、気怠げに振り向いた男は口元に薄笑いを浮かべていた。綺麗な顔なのに、人を食ったような笑い方だった。目の下のクマは失恋の憔悴によるものだろうか。
学校指定の上履きは、入っているラインの色で学年が判る。キッドは赤。制服の男は青。先日の卒業生の色だ。

「俺は卒業、あっちは異動。大人は残酷だよな…こっちの気も知らずによ」
「なんだ、先生か」
「コラさんってんだ」

そんな名前の奴いたかな。思い出そうとしたが、キッドはそもそも離任式をサボっている。早々に思い出す作業は諦めた。

「ドジな人でさ、俺にいっつもフォローされてんのに兄貴風ふかせてんだ。でも、それも嫌じゃなくて……うん、好きだった」

相手男かよ。キッドは嫌悪の表情をするつもりだったが、何故かうまくいかない。目の前の男の夢見るように語るまなざしに、「残念だったな」と声をかけてしまっていた。男は疲れたように「へへ」、と笑った。

「…といっても、片思いなんだけどな。向こうは俺に恋愛感情なんかねえんだ」
「そりゃ、わかんねえだろ」
「わかるんだよ馬鹿。赤の他人が………誰だっけ、お前」
「はじめましてだよ、馬鹿」

妙な罵りあいの中で初めて、キッドはその男の目が赤いことに気付いた。
泣いてたのか、こいつ。
ああ、そういえばこの窓の先には、校庭を挟んで職員室がある。向こうの棟の2階にいる想い人を、こいつはここから眺めていたんだ。
離任式は終わったが、荷物の整理などでコラさんとやらが今日来ているかもしれない。キッドの視線も自然、窓の外に向いた。
不意に隣で、大きく息を吸う音を聞いた。男が校庭に向かい、手の平でメガホンを作っている。オイまさか。

「コラさ――
「やめろ馬鹿!!恥ずかしいだろうが!!」

ぎょっとして、叫びかけたその手メガホンを反射的に叩き落としていた。よく考えればキッドが恥ずかしいことなど何もないのだが、この男が奇異の目で誰かに見られるのは嫌だと思った。
手を叩き落とされた男は何がおきたのかわからず、だがポカンとした顔に徐々に怒りを滲ませていく。頭半分下からキッドを睨みつけてくる。

「…っにすんだよ…テメェには関係ねえだろ」
「見てらんねえだけだ、自棄になってもいいことねえぞ」
「俺ひとりで馬鹿を見りゃいいんだよ。ひとりで…本気になって、…ずっと一緒になんかいられねえこと解ってたよ、解ってたのに、ひとりで夢見て、ほんっと馬鹿みてえな――」


「だから、自棄になっても仕方ねえだろ」

そんなに辛いなら見なきゃいい。その人を追ってしまう目を隠せばいい。
キッドは男の黒髪を片手で抱き寄せると、自分の胸に顔を埋めさせた。風に翻るカーテンの中で、片手に収まる小さな頭をあやすように撫でる。「よしよし」と。当然、抵抗はある。胸板を数度、強打された。

「ッ…ざけんな!離せっ…!!」
「フラれた奴の慰め方なんて知らねえからな」
「慰めろと頼んだ覚えはねえよ!!」
「ああ。けど――泣きてえとこ邪魔しちまったんじゃねえか、俺」

胸板を叩く拳が止まった。

「それは、悪いと思ってる。だから何つーか、…泣かせてやりてえ。見ねえからよ」

男は一度も、顔を上げない。そうですかと泣ける状況のわけはなく、しかし止めた抵抗を続けるほどの怒りもない。じわじわと胸の奥から溢れてくる感情に、男は戸惑っていた。

「……生意気だな、後輩のくせに」
「面倒くせえ先輩に言われたくねえ」
「………」

よしよし。よしよし。
撫でられ続ける黒髪に、窓からひらりと舞い込んだ桜。

「……明日も、ここ、…来れるか」

キッドの胸に、男が涙ではなく呟きを落とす。
未だに顔は上げないけれど、ほのかな温もりがキッドの胸を暖めていた。


「…明日、お前の名前…教えてくれよ」





おわり



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