夕闇×〇〇

□W
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話題の人物──名をジェイソン・ハーパーという──は、自身の手で気絶させた少女を見下ろしていた。
わざわざ回りくどい方法を使ってまでこんなことをしたのにはひとつの理由があった。

その訳というのが、今まさに手の内にいる少女凛桜にあまりにも隙がなさすぎるということだった。
暗闇で捕まえようとしても早々に気配を察知して逃げられ、それとなく親睦を深めようとしても一定以上の距離には踏み込ませてくれない。一筋縄どころか縄が二、三本あっても足りなかった。

実力行使でどうにもならないのなら、小細工をするしかない。

ハーパーは元製薬会社のトップである。
もちろん真っ当な企業ではなく、その成分も効果も滅茶苦茶なものが多かった。その中でもハーパーが最高傑作と謳った睡眠薬があった。
その睡眠薬は、どんな不眠を抱えている者であろうと確実に眠れると話題になった。

しかし、この薬の真髄はそれではない。
今まで溜め込んだ不眠──睡眠負債を一晩で帳消しにできる。それこそがz509の真の力だった。

──ハーパーは凛桜が欲しかった。

z509を混ぜ込んだフレグランスは、正確には18時間から24時間の間に副作用が出る。
突然気絶し、次に起きた時には発狂している。愉快な薬である。

「お前のために薬を強めたんだよ」

目を閉じてぴくりとも動かない少女の瞼を指先で撫でる。
スーツの内ポケットから袋を取り出し、ハーパーはその中身を手のひらに転がした。
ペンのような見た目の、細長い、透明の注射器だった。

これを、少女の柔らかい皮膚に突き立てて。
身体を巡る血液の中に入れてしまえば。

ハーパーの唇が知らず知らず緩む。人が見れば奇妙に思うほど歪な笑い方だった。

──ハーパーは凛桜が欲しい。

透けるような白髪。悪戯好きな子供と冷静な大人が入り交じる瞳。形の良い輪郭。東洋人特有の幼い顔立ちと低い身長。いつも何か企んでいるように口角の上がった唇。それほど高くはないが低くもない鼻。

黙って横たわっている姿は儚げで、精緻な人形のようにさえ見える。

「これさえ打てば、お前は俺のものになる」

裏路地をうろうろしている彼女を見た時は、鴨がネギを背負ってやってきたとほくそ笑んだ。

ハーパーは、凛桜の見た目が好みだ。
性格などはどうでも良く、ただこの顔と身体を傍に置いておきたいだけだった。
だからハーパーは、凛桜を手に入れるためにここまでやって来た。
身体をもらうためには、凛桜の意思が邪魔だった。
だからそれを、今から排除するのだ。
眠らせ、抵抗できないようにしてから、物言わぬ自分だけの玩具にする。

「高嶺の花、という柄でもないだろうに。よくここまで粘ったな」

どちらかというとそこらへんに生えている雑草レベルの性格をしている。見た目は良いのだが、中身はハーパーの好みから完全に外れていた。
そもそも裏社会にのこのこやって来るような女は最初から範疇外だ。そんなものは女とも言えない、というのが彼の持論だった。

女は淑やかさが第一だ。
うるさく喋る口も、あちこち歩き回ろうとする足もいらない。ただ黙って座っていればいい。

慣れた手つきで注射器の先端を少女の首にあてる。
簡単に折れそうだと思いながら、刺しこもうとした針が逆にぽきんと折れた。

「ん?」

注射の腕が落ちたのだろうか。
首を傾げながら、ハーパーは予備で持っていた針に付け替えた。

しかし。

注射針は凛桜の皮膚に侵入することなく、再び哀れな音を立てて床に落ちた。

「な───」

ハーパーは驚き、まじまじと少女を見下ろした。
静かに眠る姿が変わらずそこにあった。
普通の、人間の少女の姿をした。
特殊な能力は持っていないはずだ。仕事をしている時も、ハーパーの差し向けた部下達を撒く時も、只人そのものだった。

ならば、なぜ。
ハーパーは床の針を拾い、しっかりと機械の指に力を入れて摘んだ。
もう片方の手で少女の顎を固定し、横を向かせる。
彼は真上から手を振り下ろした。

針は今度こそ、少女の薄い肉を突き破る──そのはずだった。

「────ッ!」

弾かれた。

針が勢いよく飛び、先程よりも遠くへ落ちた。
立ち上がって取りに行く。
床に転がった針を見て、ハーパーはごくりと息を飲んだ。
針はあらぬ方向にねじ曲がり、原型を留めてはいなかった。

「くそ、他の場所は……」

凛桜の所まで戻り、またその顔を見下ろしてハーパーはぎょっとした。
思わず飛び上がって後ろへ下がった。


「…………くす」


くすくす、くすくすくすくす。

耳にこびりつくような笑い声がさざめいた。
少女が。凛桜という名前の少女が、はっきりと目を開けて、ハーパーを見ていた。
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