夕闇イデア

□X
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魂が抜けたような顔をして、凛桜は立ち上がった。
いつかのイトリと同じように、二つのコーヒーカップに首を傾げる董香を尻目に錦の横を通り過ぎる。
コーヒー二杯分の代金をカウンターに置き、ふらりと出口に向かう。

「……ニシキ」
「んだよ」
「ありがと」
「………………」



そうして出てきた彼女を、軽く笑い飛ばす女が一人いた。

「バカねぇ、アンタ」

明朗とした声。
三区にあるオーダーメイドの服屋に立ち寄った凛桜は、顔を出した途端にそう言われていた。
店の中には布が散らばり、所狭しとマネキンが置かれている。
その中心でミシンをガタガタさせている女が、声の主だ。
鮮やかな色の爪を見せつけるかのように口元を隠し、彼女はくすくす笑った。

「……イノリ」
「そろそろアンタが来ると思ってたところ。座んなさい、コーヒーくらい出したげる」

足の踏み場もないほど乱雑としていたが、凛桜は器用に避けながらイノリの机に近付いた。
普段――ここにしょっちゅう来ていた頃は、好き勝手していたものだ。
凛桜のチャイナ服を作っていたのはイノリで、あのデザインを考えたのもイノリだ。
付き合いはもう、十年以上になるか。
イノリがマグカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットから湯を注ぐ。
適当にかき混ぜ、机に辿り着いた凛桜の前にドンとそれを置いた。

「ったく、迷子の子猫かアンタは。しょぼくれた顔しちゃって」
「………………」

凛桜はむっとした。
好きで悩んでいるわけではないというのに、この女はいつもケラケラ笑い飛ばすのだ。
それがいつも腹立たしくて、苦手で。
けれど、それを求めてここに来てしまっている。
その度にイノリは笑いながら凛桜の背を叩くのだ。

「記憶喪失って噂の割には全部分かったような顔して悩んでるわね。思い出したの?」
「……さあね」

ぶすっと唇をへの字にさせた凛桜の額をつつき、イノリは目を細めた。

「いつも言ってるでしょ、リオウ。アンタ、細かいこと考えすぎなのよ。もっと気楽に生きたらいいのに」
「……イノリが適当すぎなんでしょ」
「アンタが悩みすぎなのよ」

彼女を友人と呼べるのか、凛桜は分からない。恐らくはイノリも同じことを思っているだろう。
二人が会うのは、凛桜が気まぐれに店を訪れる時のみ。
互いの連絡先も、本名も知らない。
薄っぺらいが長い。深くもなければ浅くもない関係。
湯気の立つマグカップを取り、凛桜は口をつけた。
久しぶりに飲むインスタントコーヒーは、前に飲んだ時よりも苦く感じた。


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