夕闇イデア

□T
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緩やかな微睡みの中、凛桜はぼんやりと目を覚ました。
扉が開く音がして、誰かが入ってくる。

「……起きたかい、リオウちゃん」
「てん、ちょ……?」

優しい声に、ゆっくり瞬いた。
頭がぼうっとしている。
白髪をきれいに撫でつけた壮年の男と、高校生ほどの少女が立っていた。
周囲を見渡すも、覚えのない部屋だった。

「ここはあんていくの2階だよ」
「アンタ、倒れたんだよ。店のドアが開いたと思ったら誰もいないから、幽霊でも来たのかと思った」

あんていく。20区にある喫茶店の名前だ。
店長の芳村が入れる珈琲は絶品で、喰種はもちろん人間にも人気がある。
その従業員である少女――霧島董香は、絶対零度の如き冷たさで凛桜を見下ろしている。
その顔はいかにも迷惑そうで、さっさと出ていけと言わんばかりにしかめられている。

「……リオウお姉ちゃん、起きたの?」
「ヒナミ」

横たわった凛桜の腹の横で、誰かが動いた。
中学生ほどの少女が凛桜を見てぱっと笑顔になった。

「久しぶりだね、ヒナミちゃん……」
「え?」

目を丸くした雛実に、凛桜はあれ、と違和感を覚えた。
――久しぶり?
否、つい先日会ったばかりのはずだ。
それに、彼女のことは名前で呼ばないようにしていたはず。
名前で呼べば、大切に思ってしまうから。
当然のように口をついて出た言葉に当惑し、一瞬間が空く。

「……どうしたの、アンタ。頭でも打った?」
「何かあったのかい?前より雰囲気が柔らかいね」

凛桜は混乱した。
とてつもない違和感と虚無感に襲われる。
だが、それと同時に眠気も訪れていた。

「――長い夢を、見てた気がする……」

吐息のようにそう呟き、凛桜は目を閉じた。
暗闇に落ちていくかのような浮遊感の後、彼女は意識を手放した。

✱✱✱

次に凛桜が目を覚ますと、そこはあんていくではなくなっていた。
はっきりしない頭を押さえ、起き上がる。
体に掛けられていた毛布が足元にずり落ちていった。
毛布を畳み、寝ていたソファから床へ降りる。
途端に走った激痛によろめいた。

「ッ………」

腹と胸、足。
至る所が痛み、思わず膝をついた。
その拍子に大きくはないが小さくもない音が響き、何者かの気配が部屋の外で動いた。
扉が開き、大柄な男が凛桜を見下ろした。

「……起きたか」
「…………四方蓮示?」

意外な姿に、凛桜はきょとんと彼を見上げる。
四方は無言で凛桜を助け起こし、立ち上がらせた。
そして凛桜をソファへと促し、彼は部屋にある冷蔵庫を開けた。
中から包みを取り出し、ソファの前にある小さなテーブルに置く。
中身は見ずとも分かった。
どこかから持ってきた“食糧”だ。

「……食べろ。その傷をまず治せ」

淡々と言うと四方は出て行った。
凛桜が状況を飲み込めずに呆然としていると、すぐに扉がまた開いた。

「目が覚めたって?」

霧嶋董香だった。
だが、凛桜の記憶にある姿よりも成長している。
もう少女ではなく、大人の女になっていた。
困惑したまま沈黙していると、董香は遠慮なく凛桜の向かいに座った。

「食べないの?」
「……食べる」

テーブルの包みを開く。
皿とフォークを差し出してきた董香に礼を言い、凛桜は食べ始めた。
その様子を眺めながら、董香は凛桜に言った。

「随分長い間行方不明だったけど、どこで何してたの?」
「…………行方不明?」

食事の手は止めず、凛桜は聞き返した。
現実味のない話と現状に、彼女の頭は考えることを放棄していた。
やけに空腹を訴える胃に肉を流し込む作業を続ける。

「3年もいなかったじゃん、あんた」
「……はぁ」

凛桜の気の抜けた返事に、董香はがくりと脱力した。
肉を頬張りながら、凛桜はボーッと話の内容を反復した。

「3年、行方不明……」
「昨日の夜にニシキが道端で倒れてるあんたを見つけてここに運んできたんだよ」
「へー……。あの西尾錦が珍しい……」

美味いとも不味いとも言えない感想の肉を完食し、ぺろりと唇を舐める。
今のこの現実が、あんていくの2階での出来事から3年経っているなら。
それとも、あれは夢だったのだろうか。
何もかもが分かっていない凛桜は、素直に董香へ疑問を投げかけた。

「私って、あんていくで倒れたことあったっけ」
「はぁ……?ないけど。なに、頭打った?記憶障害?」
「ふーん、ないのか……」
「あんたの噂も姿も見なくなったのは、月山の事件の前だったよ」
「月山の事件?」

董香の明るく染めた髪が揺れる。

「アイツ、カネキを喰種レストランに連れて行ったんだよ」
「……へー。美味しそうな匂いしてたもんね、カネキくん」

金木が食べる方ではなく、食べられる方で連れていかれたのだと凛桜は瞬時に悟った。
――喰種レストラン。
会員制のレストランだが、もちろん普通のレストランではない。
高級志向の喰種が集い、攫ってきた食材(人間)を目の前で解体させて楽しむという悪趣味極まりない場所だ。

月山習という喰種は、喰種の身でありながらも財閥の子息という身分を持つ。
レストランにもよく出入りしていた。

「レストランで隻眼だってことがばれて、帰って来られたんだけど……。その後ニシキの女が月山に拉致されてね。それを助けるためにアイツとやり合った」
「ふぅん。西尾錦って彼女いるんだ。……で、ここはどこ?というか、3年の間に何があったわけ?」

凛桜の問いに、董香は翳りのある目を伏せた。
そして彼女は語り出した。
全てが変わってしまった原因――CCGによるあんていくの襲撃、消えた金木研と芳村店長のことを。



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