夕闇イデア

□X
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「それで?どうしたいのよ」
「…………」
「リオウ」

幼子を宥めるような声。
コップの淵を見つめ、凛桜は静かに首を振った。

「だめだよ」
「何が?」
「戻ったらいけない」
「どうして?」
「あそこは……綺麗すぎるから」

イノリは作業していた手を止め、机の下の足を思い切り向かいへ振り上げた。

「い゛っ……!?」

がつん、とおよそ肌にぶつかったとは思えない音が響く。
見事脛に直撃したらしく、凛桜が机に沈んだ。

「私はどうしたいの?って聞いたの。どうして行動を起こさないの?とは聞いてないわ」

で?とイノリが凛桜を促す。
下からジトリと恨めしそうな目が覗いたが、イノリは無視した。

「そういうところが考えすぎって言ってんのよ。――いい?自分には相応しくないとか戻ったらいけないとか、そんな余計な感情は抜きにした、あなたの、本音は?」

凛桜は自分でも分かるほどに、迷子の子供のような顔をしていた。
何度も唇を開いては閉じ、瞳を揺らした。
イノリはそんな凛桜をじっと見つめ、答えが出るのを待った。
何秒、何十分と経っただろうか。
静寂の中、ぽつりと凛桜が囁いた。

「……かえりたい」
「はい。よく言えました」
「で、も……」

ごにょごにょとまた何か言い出しそうな凛桜を視線だけで黙らせ、イノリは微笑んだ。
“戻りたい”ではなく“帰りたい”と言った、その意味。
凛桜自身がまだ理解していないそれを、彼女は正確に汲み取った。

「帰る場所ができたんでしょ。ハリネズミみたいなアンタを、針ごと受け入れてくれるような人ができたんでしょ?」
「……!」

凛桜の姿が揺らぐ。
意思を口にした時から、彼女の体は急速に薄くなっていった。
イノリの店を訪れた時、既に彼女は半透明になっていた。
未だに消えていないのは悩んでいたのもあるだろうが、もしかして、とイノリはある可能性に気付いた。
あまりにも可愛らしいその可能性に、ふっと笑みが零れた。

「……ね、リオウ。頑なに名前を呼ばなかったアンタにまた、イノリって言ってもらえて嬉しかったわ」

――イノリに会うためだけに凛桜がこちらに留まっていた、なんて。
なんとヒトらしい理由。ヒトらしい感情だろう。
凛桜が泣きそうな顔で笑う。
その姿はもう消えかかり、目を凝らさなければ見えないほど朧げだった。

「あのね。私はずっとアンタのこと、友達だと思ってたわよ」

細かい光が弾け、霧散する。
最後に見た友人の驚いた表情に、イノリは満足気に笑った。

「さよなら、リオウ。……また戻ってきたりしたら、今度は脛だけじゃ済まさないから」

コーヒーを飲み干し、イノリは店を閉めるために立ち上がった。
……今夜は、冷えそうだ。
寒空を見上げ、女は白い息を吐いた。


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