夕闇イデア
□V
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少しの沈黙のあと、凛桜は口を開いた。
「私は凛桜。お姉さんのことはなんて呼んだらいいかな」
「あら、知らないの?」
「コードネームは知ってるよ」
「あなた、なんでも知ってるわね。あのメガネのボウヤから聞いたの?」
ポールにもたれる凛桜の目がくるりと動く。そうしていれば見た目はただの少女なのだが。
「勝手に聞こえてきただけだよ。私、耳がいいの」
「私達のことも、調べてないと?」
「もう裏社会に用はないからね。だから、組織としてのあなたじゃなくて、個人として接して欲しいな」
普通の少女のようにはにかむ。
警戒すべきところはあれど、凛桜は一度も敵意を見せたことはない。
ベルモットにとっては信じ難いが、本当に何かする気はないらしい。
「……シャロン・ヴィンヤードよ。シャロンと呼んでちょうだい」
「シャロンね。じゃあ、私に会いたくなったらここに電話してくれる?」
服のポケットから取り出したメモをベルモットに押し付け、凛桜は立ち上がった。
「そろそろ帰らないと、コナンくんに怪しまれちゃうからね」
ふふ、と優しく笑う凛桜に、ベルモットは瞠目した。
そんな彼女に、凛桜はひらりと手を振った。
「私がいる限り、子供たちには傷ひとつつけさせないから。安心してよ」
一番の懸念を最後に言い当て、少女は去っていった。
初めからそれを分かっていて近付いたのだと今さら気付き、ベルモットは唖然とした。
凛桜は本当に、ベルモットに会いに来ただけだった。敵意も殺意も警戒もなく、ただベルモットの意図を察し、それを汲んだだけだった。
「……恐ろしい――悲しい子。そうやって立ち回らなければ、生きていけなかったのね」
囁きのような声を拾い、凛桜は目を閉じる。
歩は止めず、薄暗い路地をただ歩いた。
「……悲しい、か。うん―――」
瞼が上げられた。
ビキ、と音を立て赫眼が一瞬現れる。
クスクス笑いながら凛桜は嘲った。
「もう知らないなぁ、そんな感情は」
他でもない自分を嗤い、少女は夕焼けを見上げた。
もうすぐ夕闇がやってくる。
それまでに、帰らなければ。
***
「携帯も持たずにどこに行っていた?」
帰宅した凛桜を、赤井が待ち構えていた。
凛桜はへらりと表情を崩し、リビングのソファに座る。
「シャロン・ヴィンヤード……ベルモットに会いに」
「ベルモットだと?」
「私が何かやらかすんじゃないかって警戒して動く頃だと思ってね。先手を打ってきたよ」
組織に連れていかれては困る、と凛桜は白い頭を背もたれに預けた。
立ったまま見下ろしてくる赤井に手を伸ばし、ぺしぺしその腕を叩いた。
「奴らにお前の存在が露見したと?」
鬱陶しかったのか、赤井が凛桜の手を掴む。
予感通り、本当にベルモットに会えたことが嬉しかったのか、凛桜は悪戯が成功したような顔をしている。
「言ってないと思うよ。シャロンは私が宝物に手出しをしないかを気にしてたからね」
「エンジェル、か」
「コナンくんにベルモットについていろいろ聞いておいてよかったよ。私を随分警戒していたからね、彼女」
「あの女も裏社会に身を置いて長い。そういった気配にはよく気が付くんだろう」
「みたいだね」
凛桜は手を下ろし、ベルモットを思い出した。
凛桜を恐ろしい、悲しい子だと言ったあの時、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。
「……私って、そんなに危ない気配してるかなぁ」
隠しているつもり、なのだ。凛桜の中では。
だが、見る者が見ればすぐに分かるという。
こればかりは自覚もないのでどうしようもない問題だった。
「大分薄れたとは思うが」
「ほんとに?」
赤井がしゅんとする凛桜の頭を乱雑にかき回した。
歳がひと回り以上離れているせいか、彼はたまにこうして凛桜をただの少女のように扱う。
「バーボンはほとんど警戒していなかったんだろう?」
「まぁ、うん」
「ならいいじゃないか」
「軽い軽い。安室さんはこっち側だからいいけど、シャロンは違うでしょ」
ぼさぼさにされた髪を整え、凛桜はじとりと赤井を見る。
たまに雑になるのは、彼の生来の性格だろうか。
「真っ黒な組織って聞いてたけど、シャロンは結構明るかったよ」
「服の話か?腹と頭の中はどす黒いだろう」
「果たしてそうかなー」
本当にどす黒いなら、大切な宝物などないだろう。
その宝物というのが人なら、なおさらだ。
ベルモットの心に良心というものがある証拠になる。
彼女は宝物を案じて、わざわざ凛桜に接触しようと画作していたほどなのだから。
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