夕闇イデア

□X
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「……あかい、さん」

妙に重い身体を引きずるようにして、意識が浮上した。
目を開けた途端、真っ先に凛桜の視界いっぱいに飛び込んできたのは赤井の顔。
僅かに呼吸を止め、彼はほんの少しだけ安心したように口元を緩めた。
もぞりと動いた凛桜の背を支え、起こすのを手伝う手は無造作だが温かい。

「よく戻った」
「……うん」
「少し寝過ぎだな」
「…………うん」

あまり回らない頭で、凛桜は頷いた。
至近距離にある赤井の顔をとっくりと眺め、特に何も考えずに重い腕を持ち上げた。赤井の首の後ろまで手を回し、ぐいっと引き寄せる。
肩に顎を置き、頬をつける。
白髪の癖毛が顔に掛かったが、凛桜はそのままの体勢で落ち着いた。
密着している凛桜の腕と頬の下には、しっかり筋肉のついた首と肩がある。
されるがままの赤井は中腰という、それなりに負荷のかかる状況にあったが全く動じていない。
なぜ抱きついているのかは凛桜にも分からなかったが――強いて言うならばそうしたかったから、というのが理由だが。彼女は、その心地良さに目を細めた。

「……ただいま、赤井さん」
「ああ、おかえり」

戻ってきた――帰ってきたのだという実感が、じわじわと胸の内に広がる。
凛桜が“ただいま”を言う場所はここしかない。
一緒に住んでいるのは家族でも恋人でもなく、ましてや友人とも呼べるような相手ではない。だが、そのちぐはぐさがしっくりと馴染んだのだろう。
腕を解き、凛桜は赤井から離れた。

――行く所があった。

「皆心配していたぞ」
「うん。行ってくる」
「着替えはそこに置いてある。……早く会ってやれ」

随分と用意の良いことだと感心しながら、凛桜はゆっくり立ち上がった。
寝たきりだった割には、身体が動く。
怠さはまだあるが、特に気にする点はなかった。
赤井が出て行ったのを見てから、凛桜はのそのそと寝巻きを脱いだ。
痛みも違和感もないことに安心し、自分の身体を見下ろす。
胸と腹に大きくあったはずの怪我はきれいに消えて癒えてなくなり、傷ひとつない。
デジタル時計を確認すれば、こちらでは凛桜が眠りについてから数週間しか経っていない。

「……リンクしてたってことかな」

初めて世界を渡った時と違い、今回は“眠って”から“起きた”という流れがある。
身体はこちらにもあり、向こうにもあった。

「ん〜……、結構危なかったのかな。戻って来られてよかった」

鏡の前で上体を捻って背中も確認し、凛桜はようやく服を手に取った。
のだが、その服に見覚えがない。
こんな服持っていただろうか、と頭を捻る。
試しに着てみると、サイズはぴったりである。
同じ身長の知人はいないため、必然的にこれは凛桜のものということになる。
首を傾げながら身支度を整え、部屋を出て階段を下りた。
赤井はリビングでコーヒーを飲んでいた。

「似合ってるじゃないか」

ちらりと目線だけを上げて凛桜を見た彼は、そう言った。

「買うだけ買ってそのままになっていたからな」

その一言で凛桜はようやく思い出した。
この服は、蘭と園子の二人と買い物に行った時に買ったものだ。
靴も、それと似合うからと少し値の張るものを選んだのだった。
わざわざ用意してくれた赤井に礼を言い、凛桜は玄関に向かった。

「行ってくるね」
「ああ、暗くならないうちに帰って来い」

新しい服を着て、新しい靴を履いた。
空を見上げて、少女は一歩を踏み出した。

――幸せを願い、平穏を祈った。

選ばなかった世界にさよならと告げて。

fin.
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