夕闇イデア

□V
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「やっほー」
「やあやあ、そろそろ来ると思ってたよ」

店の中は客がおらず、貸切状態だった。
カウンターから1人の若い女がひらひらと凛桜に手を振っている。
端の方の席へ男を連れて向かうと、カウンターからの視線がじっと追ってくる。

「普通の酒ちょうだい。あと血酒(ワイン)
「普通の酒ね。今ちょっと品薄なんだけど……ご注文は?」

興味津々で近寄ってきた女店主――イトリに注文を言うと、彼女は目をきらきらさせながら男を見た。

「では、ハンターを」
「はーい」
「凛桜さん、お酒飲める年でしたっけ?」
「アルコールじゃないから大丈夫」
「それよりあんた、どこで何してたのさ!男なんて連れてきて、駆け落ちでもする気?」

凛桜は身を乗り出して聞いてくるイトリを鬱陶しそうにしっしっと追い払う。

「いいから早く持ってきて。この人と話があるの」
「はいはい、じゃあアタシは口出しせずにゆっくりしとこうかね」

イトリが赤い液体をワイングラスに注ぎ、凛桜に出す。

「……あなたの名前は?」

左隣の男に尋ねると、彼は一瞬言葉に詰まった。

「あなたには安室透で通していましたが――、記憶がないのなら全ての名前を明かしましょうか」
「……なに、複数あるわけ?」
「ひとつはコードネームですが。バーボンと呼ばれています」

バーボン、と小さく反芻する。
聞き覚えはないがふたつの名前になぜか、馴染みを覚える。
肘をついた左手で額を覆った。

「……本名は降谷零。バーボンとして活動している組織に潜入捜査官として入り込んでいます」
「そんなことをこんなところで、しかも私に言っていいの?潜入捜査官って――、警察でしょ」

まさか、と疑念が浮かぶ。
忘れてしまった3年の間で、警察関係者と繋がりがあったとはにわかに信じられない。
もしや自分の記憶がないのも警察に何かされていたのでは、と凛桜は男を見つめた。
だが、潜入捜査官が自ら身分を明かすメリットが見つからない。
そんな秘密を易々と暴露した彼の真意が分からない。

「この国に僕の関係者はいませんから。それに、本来の姿で君と会ったことがあるのは二度だけ。普段は安室透として接していますよ」
「―――今は?」

彼は暗に、今この瞬間は姿を偽らなくて良いと言った。

「今しゃべっているあなたは、(どれ)?」
「……さて。バーボンや安室透ではないことは確かかな」
「なら、降谷零?」
「かもしれない」

怪訝な顔をする凛桜に、男はふっと気が抜けたように笑った。

「変わらないね。自分のことはそっちのけで、他の人を心配するところ。――本当は覚えているんじゃないか?」
「なに、を……?」
「潜入捜査官だと明かした時、君は俺を疑いはしたが警戒は一切しなかった」

がらりと口調が変わった彼に、何が本当の彼なのか分からずに困惑する。
だが、今の彼が一番彼らしい。
甘い笑顔も丁寧な物腰も、嘘くさく思えてくる。
凛桜の頭がズキッと強く痛んだ。

「思い出したくないなら、しばらくはそのままでいい。けど、皆待っているよ」
「……っ()……ぅ……」

激しい頭痛に、目を開けていられない。
薄目で横を見ると、彼の姿が霞んで見えた。

「……時間切れのようです、凛桜さん」
「え……?」

頬に褐色の手が触れた。
と思ったが、体温も感触もない。
ぎょっとして男を見ると、本当に姿が透けていた。

「忘れないで下さい。色んな人があなたを心配しています」
「ちょっと、待っ――」
「ポアロで待っています。1ヶ月以内に来て下されば、あなたの好きな珈琲をまたサービスしますよ」

凛桜は目を見開いた。
何かを言いたくて、だが何も思いつかなくて間抜けのように口を開いては閉じた。
男の体はどんどん消えていく。

「―――あ、」

最後に胡散臭い笑顔を顔に貼り付け、彼は消滅した。

「……むろ、さ……」

無意識に零した名前に気が付かないほど、凛桜は呆然としていた。
そこにいたはずの人物が忽然と消えたことに、彼女は恐怖した。
触れられなかった手と消えていく姿。
永遠に届かない場所へ行ってしまった。守れなかった。

「れ、ん」

腕の中で弱々しく「ごめん」と言った弟――あれは、いつのことだったか。
断片的に映像がフラッシュバックしながら、薄れていく。

「……ちょっと?大丈夫?」

今までずっと沈黙を貫いていたイトリが凛桜を覗き込む。
蒼白な顔の彼女に血酒(ワイン)を飲ませようと立ち上がった。
その隣にあるグラスに、イトリは首を傾げた。

「……アタシ、普通の酒なんて作ったっけ?」
「――――――」

それを聞いた凛桜は音を立てて立ち上がった。
血酒(ワイン)を煽り、一気に飲み干す。
テーブルに金を置くと、一直線に扉へと向かった。

「あ、ちょっと。アタシへの用件はいいの?」
「ロマに殺すぞチビって伝えといて」
「そんだけ!?」

イトリの唖然とした声を遮るように扉を閉める。
拭いきれない嫌な胸のざわめきを直視したくなくて、唇を噛む。
咥内の血酒(ワイン)の味と自分の血の味が混じり、吐き気がこみ上げた。

「分からない……」

まるで凛桜の他には誰もいなかったかのようなイトリの態度を思い出す。
また自分もそのうち忘れてしまうのだろう。

――重い鉛の塊でも飲み込んだような気分だった。

「胸糞悪い……」

ギリ、と歯ぎしりをして目の前を睨んだ。



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