夕闇イデア

□T
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「凛桜ちゃん、またあのお客さん来てるよ」

制服に着替えてから凛桜が顔を出すと、店長が一言そう言った。
その言葉に少し眉を上げ、凛桜は店内を見渡した。

「凛桜ちゃーん!」
「お熱いねぇ」
「あなた誰でしたっけ?」

カウンター席のすぐ近くにある丸テーブルから手を振る男に言い放つと、彼はがくっと体勢を崩した。

「し、辛辣……。毎日通って凛桜ちゃんがいる曜日を把握したから、そこからお近付きになろうと思ってる俺の心はもうズタズタ」
「それはそれはお疲れ様ですね〜、お客様」

彼は凛桜を二度にわたりナンパした男である。
名前をまともに覚えてもらえず、苦心の日々を送っている哀れな青年だ。
店内を見渡すと、常連の客ばかりだったので少し安心する。彼は仕事の邪魔はしないが、いたら鬱陶しいのである。

「ご注文は?」
「凛桜ちゃんのコーヒー」
「店長、コーヒーお願いできますか」
「あれー?聞こえてた?」
「はーい、仲が良いねぇ」
「店長も聞こえてた?俺、凛桜ちゃんがいいんだけどなー?」

いそいそとコーヒーを入れ始めた店長と、他の客の所へ行ってしまった凛桜を見て男が悲しげに眉を下げた。
常に辛辣な凛桜と、一見分かりにくいが彼への対応が雑な店長のタッグは名物となりつつある。
常連客は凛桜への好意を隠しもせずに声をかける男を毎日見て知っているので、今や彼を応援する客までいる。

「毎回いるね、彼」
「そうですねぇ」
「振り向いてあげないのかい?」
「まだ振り回しておきます」

中年の夫婦が笑いながら凛桜に話しかけた。
彼女も笑顔で毎回そう返すので、いつくっつくんだと問いかける客が少なくない。

「凛桜ちゃん、明後日のバイトは何時に終わるの?」

カウンターへ戻ると、男が笑顔で問いかけた。
店長は奥へ行っているのか、姿が見えない。

「明後日は15時に上がりですね」

男の目が輝いた。
今まで適当に誤魔化していた凛桜がようやくまともな返答をしたことが嬉しいのだろう。

「じゃあ、15時過ぎに店の裏で待ってるよ」
「ストーカーですか?やめろください」
「デレたと思ったのに!?」

にこりと笑いながら凛桜が毒を吐いた。
コーヒーを飲み終わった男は立ち上がり、伝票を持ってレジの方へ行く。

「凛桜ちゃん、会計よろしく」
「はい」

追いかける形で凛桜もレジへ行った。
伝票を見れば彼がかなりの量を頼んでいたことが分かり、眉を上げる。

「……随分食べたね?」
「友達と来てたんだけど、先に帰ったんだよ」

珍しい、と凛桜は瞬いた。
彼はいつも1人で来ていたので意外だった。

「友達、いたの?」
「いるよ!?最初に会ったときに連れてたよね!?」
「ナンパする時だけの知人かなって」

支払いを終えてレシートを渡すと、彼は意気揚々と帰っていった。
しっかり別れ際に「また明後日会おう!」と言うのも忘れずに。
いつも通り凛桜は「毎回来なくても別にいいんですよ」と返したのだった。

「凛桜ちゃん、明後日は……」
「いいんです」

何か言いかけた店長を遮り、凛桜は含みのある笑みを浮かべた。
何も言わずに「そうかい?」と頷いた店長に、「ええ」と頷いた。
空いてきた店内を見て、エプロンのポケットに入れている腕時計を探す。
針は6時過ぎを指していた。
もうひと踏ん張りだな、と気を引き締めて彼女は踵を返した。



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