夕闇イデア

□T
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「……カネキくん」

朝日が眩しい。
起き上がり、ベッドの上で凛桜は額に手を当てた。
時計を見ると、針は9時前を指している。
顔にかかる髪をはらい、立ち上がった。
寝巻きを脱ぎ、クローゼットを開ける。
先週、有希子と共に出かけた買い物で大量に買い込んだ服がずらりと並んでいる。
かなり遠慮したにも関わらず、彼女は「いいのよいいのよ!」と目に付いたものを片っ端から買っていったのである。

「……まさか、夢で会えるなんて」

適当に服を選び、頭からかぶる。
やけに鮮明だった夢を思い出しながら、凛桜はカネキを思った。
ヤモリがいた時に動けず、部屋にカネキだけが残された時に動けたのは、カネキの意識が朦朧としていたからではないか。
向こうの世界から姿を消した凛桜は曖昧な存在であることから、その存在を見ることができるのも曖昧な者でなければいけない。

(……カネキくんの幻覚(ゆめ)と、私の夢が繋がった?)

繋がることで互いを認識できるのなら、あちらに行くことができる可能性も出てくる。
だが、凛桜は帰るつもりなど毛頭ない。

(こんな生活、知ってしまったからには戻りたくないよねぇ……)

追われ殺される心配も、硬い寝床もない。
帰ってきたら「おかえり」と言われる、そんな平穏な暮らしがある。
人間はこんなにも平和なのだと、知ってしまった。
部屋を出て、階段を降りる。
リビングに行けば、沖矢がパソコンを開いて何やら操作していた。
仕事だろうか。

「おはよぉ……」

寝起きであまり出ない声を絞り出す。
頭は動いているが、身体はまだ怠かった。

「珈琲を入れている。好きに飲め」
「んー、ありがと」

欠伸を噛み殺してキッチンに向かう。
珈琲をマグカップに注ぎ、沖矢の向かいに座った。
そのままぐでんと机に突っ伏した少女に視線を寄越し、沖矢は赤井の声で言った。

「君は毎朝顔色が悪いな」
「寝起き悪くてさ。低気圧?」
「それを言うなら低血圧じゃないか?」
「むう……。低血圧……」

舌を火傷しそうなほど熱い珈琲を喉に流し込む。

「あちち。これインスタント?」
「ああ」
「バイト始めたら豆買ってこようかなー」
「入れられるのか?」
「教えてもらったからできるよ。豆、向こうでも買ってたし」

入れてたのは他人の家だけど、と付け足す。
顔見知りのバーやら仕立て屋やらの店に押しかけていろいろしていたものだ。
放浪の身も、それほど悪いものでもない。
店の手伝いやら何やらしているうちに、ある程度のことはこなせるくらいには手先が器用になっていた。

「バイトはもう決めたのか?」
「うん。いろいろ迷ったけど、最初のカフェでいいかなって。明日にでも電話してみる」

アルバイト情報誌を開き、意味もなくぱらぱらめくる。
“仲の良い職場です!”“優しい仲間が丁寧に教えます”等々、似たり寄ったりの言葉の羅列が多い。

「……その喫茶店、ポアロとかいう名前じゃないだろうな?」
「え?違うけど。そっちがいいの?推理小説好きだね」

ちなみに、凛桜が珍しく1週間も引きこもっていたのは、この家の本を読みふけっていたせいであった。
天井まで届く蔵書の数々に驚き、読んでもいいかとコナンに尋ねたところ、彼は真っ先にシャーロック・ホームズシリーズを押し付けてきたのである。
そして、それが終わったらこっち、こっちが終わったらこれ、という風に次々推理小説を目の前に積み重ねていった。
とても1週間で読み切れる量ではなかったが、キリのいいところまで読んだのでそろそろ外に出ようと決心したのだ。

「あそこはやめておけ」
「?うん」
「前に話した組織の男がいる」
「……潜入捜査官かもしれないってひと?」

あまり詳しくは聞いていないが、凛桜は改めて目の前の男とコナンの計画を聞いていた。
知りすぎても、知らなさすぎても支障が出るかもしれないと判断したのだろう。

「ああ。あの男も切れ者だからな……。君のことを信用していないわけじゃないが、今は正体を明かす時ではないのでね」
「なるほどね。近付かないようにするよ。どこにあるの?」
「5丁目にある。毛利探偵事務所の下だ」
「5丁目はまだ行ったことないなぁ……」

行かない方がいい、と言って沖矢は立ち上がる。
パソコンの電源を切り、変声期のスイッチを入れて凛桜を振り返った。

「今から買い物に行きますが、付いてきますか?」
「今日はいいや。スーパーは見てて楽しいけど、寒いから」

別人にすり変わったのかと思うほどの切り替えに、笑いを堪えながら返事をした。
こればかりはいつ見ても面白い。
玄関までは見送ってやろうと思い、凛桜も立ち上がったのだった。




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