中編

□友は神の子
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 目が覚めて重い瞼を開くと、視界はボヤけていた。ここはどこだろう……そんな疑問を胸に起き上がろうとすると、身体中に痛みが走る。長い間眠っていたのか、喉にまで違和感があって、痛みを訴える言葉は声にならない。
 動くのは諦めて一呼吸おき、霞んだ視界を頼りに回りを観察することにした。清潔感溢れる白で統一された室内で、頭上には医療用らしき器具が見え、まるで入院患者が目覚めたシーンだ。ドラマや映画でよくある――非日常的な筈のビジョン。
 痛みを我慢して首を動かし辺りを見渡せば、右側にはカーテンが閉まったままの大きな窓。左側には棚、その上にテレビと小さな花瓶。そして、椅子に座って壁を背に俯いている、学ラン姿の小柄な人が居る。
 その人は白い帽子を深く被っていて表情は全く見えないものの、規則正しい息遣いが聞こえた。どうやら寝ているらしい。寝ているのなら起こすのも悪いし、声をかけるのは止めておく。見覚えのある雰囲気のその人に安心感を覚え、ゆっくりと目を閉じた。
 回りの観察を終え、漸く自分について考え始める。ここは恐らく病院で、自分はベッドの上。自分は病気か怪我で入院していると思われる。身体の痛み具合からすると、怪我の確率が高い。
 しかし、自分はいったい何者なのか、何故こんな事態になっているのかが全く解らない。一般常識や過去に得たであろう知識は覚えているものの、自分自身や自分の過去が思い出せない。
 所謂“記憶喪失”の一種なのかと考えていると、眠っている人の横に見えた扉が開いたらしい。開閉音が聞こえ、足音が室内に入って来た。
「あら、リョーマ来て――って寝ちゃってるの?」
「いっ……」
 聞き覚えのある女性の声と呟かれた名前に驚き、目を見開いてつい起き上がろうとしてしまう。しかし痛みで動けず、小さな声だけが出た。
「藍ちゃん! 目が覚めたのね! 良かったわー」
 それに気付いたらしい女性が“らん”と呼びながら近付いて来るので、未だはっきりしない視界を頼りに観察する。細身の色白で柔らかい雰囲気だけれど、それを引き締める様な黒いパンツスーツで身を包んでいる。長そうな髪をお団子でアップにしていて、仕事の出来る女性という印象を受けた。
 声から判断すると、この女性は私の知っている人物。けれど私の知る声の主とこの女性は違う印象で、しかしながらこの女性にも見覚えはある。先程この女性が呼んだ名前もよく知っている。その名前の人物とこの女性の存在は架空の筈。
「……あの」
「何かしら? 声、出にくいみたいね」
 “らん”が自分の名前なのか、ちゃん付けということは自分は女なのか、実感の湧かない自分について考えながら口を開いた。次第に“トリップ”という言葉も頭に浮かんでくる。
 更に近付いて覗き込んでくる女性を見つめ返し、違和感の残る喉から掠れた声を絞り出す。
「……倫子さん、ですか?」
「ええ、そうよ! 良かった、解るのね!」
「……それって、どういう?」
 少し心配そうな顔をしていた女性は、一気に明るい表情になった。そして私の中で倫子さんの存在が確信となり、私がトリップしているという事実も思い知らされる。しかし私は、自分がトリップしている事実よりも、倫子さんの言葉の意味が解らない方に考えがいった。
 頬に手を当てた倫子さんは、躊躇いがちにゆっくりと口を開く。
「お医者様がね、もしかしたら後遺症で記憶喪失になってしまうかもしれない、って仰っていたから心配していたのよ」
「え、それ――「やっと起きたんだ?」
 当たってると言おうとした時、眠っていた人が帽子を脱ぎながら近付いて来て、私の言葉は遮られた。近くに来て初めて見えたその顔に、会えた嬉しさで思わずその名を小さく紡ぐ。
「あなたも起きたのね。そんな所で寝ちゃって……」
「だって暇だったし」
 呆れ気味に呟いた倫子さんに、言い訳を漏らすリョーマ。親子の何気ないやり取りも、この2人であるというだけで思わず頬が緩む。
「あ、そうだわ! 先生呼んでくるわね」
 不意に思い出した様な声を上げた倫子さんは、足早に部屋を出ていった。きっと、私が目を覚ました事を知らせるのだと思う。

「……あの」
「何?」
 しばしの沈黙が流れ、話の途中だったと思い出した。リョーマにそれを伝える為に声を発すれば、短い返事が返ってくる。
「私、その……記憶、喪失……みたい、です」
「は? ……俺達の事は解るんだろ?」
 喉の違和感が邪魔して上手く喋れない中、自分の年齢が解らないのもあって一応丁寧語を使う。まだ少し眠たそうに欠伸をしていたリョーマは、驚きを隠せない様子で大きな目を丸くして見つめてくる。そして確認する様に問い掛けてきた。
「はい……でも……」
「何か思い出せないの?」
 なかなか言い出せない私を急かす様に、リョーマははっきりと言葉にしてきた。一瞬にして真剣な眼差しとなったリョーマに対し、余計言葉に詰まりそうになりながらも声を絞り出す。
「自分の事、とか……何で、ここに居るのかも、よく解らなくて」
「そっか」
 ゆっくりと説明していれば、喉の違和感も無くなり始める。リョーマらしいとも取れる素っ気ない反応が返ってくるものの、少しだけ暗い雰囲気になった様に見えた。
 リョーマ達の事は解る。けれどここが本当にあの世界ならば、自分がトリップしてからどの位の時間を過ごし、誰と仲良くなったのかは解らないと気付いた。そして今更ながら、2人のことも知らないフリをしておけば良かったかと考える。

「ねえ……俺の事、どの位覚えてる?」
 気を取り直したように再び口を開いたリョーマは、らしくもない台詞を吐いた。こうして病院に来てくれているのだから、リョーマと倫子さん、越前一家と親しくなったと思われる。けれど、そのきっかけや現在の関係までは解らない。
「リョーマ、くんの事は解ります。でも、私とリョーマくんが、どういう関係だったとか、何を話したとかは、解らないです。ごめんなさい」
「謝る必要はないだろ。あんたは俺ん家に居候してんだよ」
「い、居候? いつから、ですか?」
 事実を話して謝罪をすれば、新たな情報が飛び込んでくる。“居候”だなんて嘘みたいだけれど、リョーマが嘘を吐く意味なんて無いと考えて直ぐに信じた。
「……3ヶ月くらい前」
「ここには、どの位?」
 そんなにリョーマ達と過ごしていたのに、覚えてないとか自分のバカ。なんて落胆しながらも冷静を装い、湧いてくる疑問を投げ掛けた。
「1週間になる」
「そんなに眠ってたんですか、私。……そう言えば、今日は何月何日ですか?」
「11月29日」
 西暦も気になるけれど、そこは聞かないことにした。更に続く私の質問攻めに、リョーマは嫌な顔もせず答えてくれる。逆算してトリップしたのは8月後半だと判り、思わず口走りそうになるのをなんとか抑えた。
「……あのさ」
「は、はい!? 何ですか?」
 私の質問が終わったとみたのか、少しの間を空けてから何か言いたげに呟かれた。何を言われるのか緊張しつつ、リョーマの言葉に耳を傾ける。
「敬語、止めなよ。あんたは俺より2つ年上だし、そんな話し方してなかった」
「……ということは、私は14歳、ですか?」
 聞こえた言葉にそんな事かと安堵しながら、リョーマの背格好を見て原作のままの年齢だと推測した。私は中学3年生で、トリップしたのは夏休みなのだと察しが付く。
「そ。だから敬語はなし」
「あー……うん」
 リョーマの返事で私の推測が確証となった。そして私が年上と解ったからには、リョーマに敬語を使う必要は無いだろう。
「それと……」
「ん? まだ何か?」
 話は終わったと思ったけれど、まだあるらしい。今度は少々言い難そうに伏せ目がちなリョーマを見つめ続けた。
「……リョーマ」
「え?」
 自身の名前を小さく呟いたリョーマに、私は意味が解らず即座に聞き返す。珍しく少しばかり瞳を泳がせるリョーマは、私の視線を気にしている様に見える。
「くん付けもしてなかった」
「あ、そういう事。そっか、解った」
 呼び捨てでいい程親しかったのかと疑問は浮かぶものの、なんだか嬉しくなって自然と口元が緩む。
 俯いたリョーマが小さく何かを呟いた気がしたけれど、扉が開く音と2つの足音によって私の耳には届かなかった。
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