cherry drops

□drops 9
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原稿が手につかない。







一週間前、桜から電話があった。
『今度はいつ会える』だなんて。
世間はバレンタインデーを目前に控え浮き足立っている。
てっきり桜もそんな目的があって電話してきたのだと思った。

『今週末、土曜日なら』


期待を抱いた自分を笑ってやりたい。
今週末の土曜どころか2月14日もとうに過ぎた。桜からは音沙汰無く、電話をしても出やしない。



「ったく、柄じゃないっての」
女を追いかけるのも、振り回されるのも。








久々に訪れた彼女のオフィス。
ノブに手をかけても、いつものようにドアが開くことはなかった。

(鍵…閉まってるのか)

若干の違和感を覚えつつガラスを軽くノックすると、奥から彼女がそろっと顔を覗かせた。

「あ……光さん」
「ここ、開けてくれる?」

呆けたように立ち尽くす彼女、仕方がないからもう一度声をかけた。

「桜、開けて」

ややあって我に返ったような彼女がドアを開き、あとに続いてオフィスへと足を踏み入れた。



「仕事してたの?」
「うん、少しだけ」
「鍵なんか閉めて」
「うん…たまたま。
光さんこそ、今日はどうしたの?」

「どうしたも何も、桜が全く連絡くれないからだろ」

デスクの前に戻った彼女が一瞬目を丸くしてこちらを見たが、またすぐ手元の書類に目をやった。

「最近ちょっと忙しかったから…」
「ふぅん」

触れる距離まで近づいてその顔を覗き込むと、目に見えて濃く浮いた隈。
少し血色の悪い肌と、やつれたような表情。

「なんか、あった?」

もっと顔をよく見ようとまた一歩近づく。けれど彼女はするりとかわし、離れた場所にあるキャビネットへと歩いていった。

俺もそちらへ移動すると、今度はPCへと向かう彼女。
近づいても近づいても、なぜか遠ざかる。

仕事をしている『フリ』をしながら。






「桜」

いいかげん焦れて壁際へ追い詰めると、やっと彼女は動きを止めた。
視線は逸らしたままで。

「桜、何か隠してない?」
「隠してなんか、ないけど」
「じゃあなんで避けるんだよ」
「避けてなんかないよ。仕事中なの」
「あっそう」


まばたきが増えるのは、嘘をついたときの桜の癖。


どうしても目線を合わせようとしないので、仕方なく無理矢理顎を掬って顔を上げさせた。

その瞬間――――


目の前にちらりと鮮やかな赤い色がよぎる。
それは、彼女の華奢な首筋に散った真っ赤な……鬱血痕。



「桜、なに、それ」

はっとした彼女が手で首筋を隠そうとしたが、一瞬早く俺がその手を掴まえた。


「やっ、離してっ」
「なんだよ、それ」
「ちょっとっ、やめてっ」
「それは何だって訊いてんだよっ」

ドンッ。

桜の身体を壁に押し付けた。細い手首はやすやすと指が周ってしまう。
ぎゅっと身体を縮めた彼女は、眉根を寄せながらもやっと俺のほうを見た。





「桜、俺とのこと、考えてくれるんじゃなかった?」

シンとした室内、重い沈黙。
2人の息遣いまで聞こえてきそうな。


「俺は…嬉しかったよ。
やっと気持ちが届いたと思った。


桜といると思うんだよね。
あぁ桜、俺のこと好きだなって。でも自分の気持ちに気付いてないなって。
俺は桜よりも桜のこと分かってるから。

でも今回は、勘違いだったか」


喋っているのは俺なのに、まるで他人の声のように聞こえる。

「そんな思わせぶって、楽しい?」




涙を浮かべながら彼女が小さく顔を横に振ると、またあの赤がちらついた。

(これは、ないだろ)

薄い皮膚に血が滲むほどに付けられた、所有の印。見ているだけで胸糞悪い。
俺ならこんな触れ方絶対しない。



「桜がなに考えてんのか知らないけど、こんなの、俺は愛だと思わないけどね」











オフィスを出て煙草に火を着けて、胸一杯に吸い込んだ。
煙と共に溜め息も吐き出す。


「あーあ、来るんじゃなかった」


桜の笑顔が好きだった。子供みたいに、デカい口で笑うところ。
裏表のない性格も、負けん気の強さも。

欲しいものはただひとつ、たったひとつだけだった。
2人で過ごした時間が幻のように遠い。



「参ったな、失恋なんてどーすりゃいいか知らないっての」



  
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