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□居候影月話その後6
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◇学校



「……なーんて、恥ずかしいこと言ったこともあったよねえ」

腰かける使い込まれた木の椅子が、ぎしり、と不穏な音をあげて軋んだ。
昔よりもだいぶ小さく感じるそれは、しかしあの頃と変わらずお世辞にも座り心地がいいとは言えない。
腰を落ち着けてからもずっと落ち着きなく前後に揺らしていた背中を、背後から聞こえてきた笑みを含む、どこかしみじみとした声にぴたりと止めた。
かつては毎日のように足を運んでいたこの場所が、今はやけに居心地が悪い。お前がこの場所にいるのは不自然だと、誰かに笑われているような、そんな気がする。
その誰か、がこの学校そのものなのか、それとも自分自身なのか、それはわからないけれど。

「なんだよ、急に」
「んー……君にプロポーズされた時のこと、思い出してた」
「……ああ」
「あの時の王様は過去最高に恥ずかしかったなー」
「お互い様だろ。おまえもたいがい、恥ずかしがった」
「君ほどじゃないし。あの後僕がどれだけみんなからからかわれて恥ずかしい思いしたか、わかる?」
「俺に会うためにわざわざ警備員すり替えるようなクソ面倒くさい小細工するようなやつに言われたくねー……よっ」

ぽんぽんと軽口を叩きあいながら、俺はおもむろに正面に向けていた首を後ろに回した。突然視線がかちあった事に驚いたのか、俺の後ろに並んだ椅子に腰かけ、机に頬杖をついていた月島はぱちりと瞳を大きくまばたかせる。

周囲の言うところのプロポーズ大作戦から、もう数か月が経った。
世界的選手が行った公の場での、まさかの男相手のプロポーズが、そこまで問題にならなかったことに、俺も月島も、そして事情を知る誰もが拍子抜けしたことは、まだ記憶に新しい。
どうやら世界中の誰もが、まさか目の前で堂々とマイクを構えていた男がそのプロポーズを受けた張本人だとは夢にも思わなかったらしい。
プロポーズ前に叫んだその張本人の名前は、あまりの大声にハウリングに紛れ、聞くに堪えない雑音と化していたことも幸運の一つ。
そしてこちらはけっして幸運とは言えないかもしれないけれども、あまり騒ぎにならなかったもう一つの理由。

「……んで?そろそろ腹くくって返事しろよ、月島」
「は?返事ならちゃんとしたでしょ」

Noって。
窓から差し込む、夕暮れの朱い光が月島の金色の髪を、オレンジ色に縁どる。ガラス越しの瞳も、馬鹿みたいに白い肌も、馬鹿にしたように笑う唇も、全てが夕焼けの空と同じ色をしている。
窓の外で、俺たちにとって特別な意味を持つ鳥がカア、と一声鳴きながら通り過ぎるのを横目で見送りながら、目の前に広がる光景がガラスに映るのを、すごく綺麗だと思った。
それはもう、ムカつくくらいに。

あの日のプロポーズに月島が返した言葉は、あろうことかNoだった。
初めのうちは相手は、結果は、交際はいつから、と騒ぎ立てていたマスコミ一同も、全ての質問に断られましたの一点張りを続ける俺にさすがに気の毒だとでも思ったのか、それともこれ以上探ってもたいしたネタが出てこないと思ったのか。数週間もすればその話題はマスコミからも、そして人々からも忘れ去られていた。
では断られた俺がそれ以来月島と再び疎遠になったのかと言えば、そんなことはない。
久しぶりに足を踏み入れたアパートに、勝手に居座り始めたのは月島の方からだった。

あの日、月島は俺の一世一代のプロポーズに笑顔でNoと答えた。
けれどもこいつは、未だに俺の傍から離れることなく、あの恥ずかしい宣言通りに誰よりも俺の姿を見つめ続けている。
毎日毎日、朝飯を作り洗濯をし、昼飯を作り掃除をし、夕飯を作り風呂を炊く。自分の仕事だってあるだろうに、どこにそんな時間や体力があるのだと思うほど、献身的に。
いつかのような、穏やかな日々を送っていた、そんな最中。
月島が烏野高校に行きたいと言いだしたのは、例に漏れず突然のことだった。

「んな返事、認めるわけねーだろ」
「なに、それ。むしろなんで僕が了承すると思ったの?」
「だっておまえ、俺のこと大好きだろ?」
「はー?意味わかんないこと言うの止めてくれますー?僕が王様を好きとか、あるわけないじゃないですかー」
「へえ、じゃあおまえは好きでもなんでもないやつのために、自分の人生ほいほい投げ打てるんだな」
「……思い上がんないでくれる。好きなのは君じゃなくて、君のバレーだから」

断られたことがショックだったかショックじゃなかったかと訊かれたら、そりゃああんな半ばおふざけのようなプロポーズでも本気で告げたのだから、まあそれなりにショックだったのだけれど。
けれど図星をつかれたような顔でふいと顔をそむける月島が抱えている想いは、あの空港で散々聞かされた。その存在は、決して疑いようがないもので、そして、俺にも負けない熱烈なものであることは、わかりきっている。
ただの意地か、それとも別の何かか。月島が俺の申し入れを突っぱねる理由はわからないけれど、それでも決して月島は約束を違えたりはしない。
それがわかるから、こんな戯れじみた会話をもう幾度も繰り返してきた。

「俺がバレー以外ダメダメだって言ったの、お前だろ。それってつまり俺イコールバレーみたいなもんじゃんか。つまり、俺のことが好きなんだろ」
「こんな時ばっかり変な理屈こねないでくれる?それとこれとはべーつー」
「いい加減認めろよ、馬鹿月島」
「……だいたい君が僕を好きだってのも信じてるわけじゃないし。いったい僕のどこに君に好かれる要素があるってのさ」

突然烏野に行きたいと言いだした月島のために、わざわざ武田先生のツテを使いカギを借り、休日中に何もおかしなことをしないとの条件付きで校舎内に侵入させてもらった。
いったい何の意図があってここに来たがったのかはわからないけれど、懐かしい学び舎に足を踏み入れた月島は満足気で、それだけでまあ、来てよかったと思わないことも無い。
それに俺自身、青春のすべてを捧げたここには並々ならぬ思い入れがあり、懐かしいと心が温かくなると同時に、もう決して戻れない輝かしい過去に少しだけ胸が痛む。
そんな感覚を持て余しながら、もう幾度繰り返したかわからない戯れをまたリフレインする俺に今までにない返答が寄越されたのに気付き、俺はお、と顔を上げる。
その先で月島は窓の外の夕焼け空を眺めていて。メガネのレンズに反射する光のせいで、その表情は読めない。
今日ここに来たことには、月島なりのなにかがあったのだなと思いつつ、俺は口を開く。

「そうだな、おまえときたら口は悪いし性格は最悪だしすぐに人を振り回すし、冷静かと思えばすぐにとんでもないことしでかすし愛想は無いし素直でも無いしいつまで経っても王様呼びは止めねえし」
「っ、なら」
「でも、冷めたこと言っててもちゃんと熱くなれるやつだってことも、なんだかんだ言ってそれなりに優しくて面倒見いいとこも、料理や洗濯が思ってたよりうまかったことも、人嫌いに見えてほんとはスゲー甘えたがりで寂しがりなところも、バレーが大好きなことも、ちゃんと知ってる」
「っ……」
「正直恋愛とか、ちゃんとしたことねえからこれが本当にそうなのかって言われたら、俺にもよくわかんねえ。でも俺はおまえのそういうとこ全部すげーと思うし、好きだと思う。そんでそんなおまえに俺がバレーをしている姿を、最後まで見届けて欲しいって、本気で思ってる」
「……」
「バレーしなくなった後のことなんて、考えられないし考えたくもねえけど。でもそこでお前が待っててくれるなら、それもいいかと思えた」

月島には、真っ向コミュニケーションだぞと言った先輩には、今でも本当に感謝している。
月島相手に絶対に間違えてはいけないと思った時。ごちゃごちゃいろいろ考えるよりも、ただ真っ直ぐに向かい合う。それが一番、有効。
単細胞だと言われる俺には、ぴったりだと思った。
だから今、決して間違えてはいけない今だからこそ、真っ直ぐにその眼を見つめ返し、嘘偽りの無い言葉を真っ向からぶつける。
勢いに任せて全て言い切り、ふうと息を吐いた俺の頬に、冷たい手が伸ばされた。

「ぶっ!?」
「王様、ほら、授業中だよ。前向く前向く」
「は、おま、なに」
「いーから」

そのまま月島は俺の頬を容赦なく挟み込むと、ぐいと無理やり前を向かせた。不自然な動きを強いられた首がごきと嫌な音を鳴らした気がしたが、そんなこと気にも留めていないようだ。
授業なんて行われている筈も無いもぬけの空の教壇を視界に映しながら、すぐさま振り返り文句の一言でも言ってやろうとした。しかしそれを決行するよりも先に、とん、と背中に何かがあたる。
まあるい温かな感触と、そしてその両脇から感じる服を引っ張る感触に、月島が俺の背中に額をあて、そして服を掴んでいるのだと気付き、おとなしく動きを止めた。そのままカア、カア、と窓の外から聞こえる烏の声に耳をすませていると、ぽつり、と震える声が聞こえてくる。

「……ずるいよね、王様は。そんな、簡単に好きとか、言うんだから」
「じゃあお前の好きは、そんな簡単に言えないくらい重いってことか」
「うるさい、黙れ。……はあ、ほんと、ずるい」

ぐい、と服がより一層強く引かれる。今振り向いてこいつの顔を見てやりたいような気もしたけれど、それを実行に移す事は無く、俺はただ昔よりもだいぶ薄汚れた天井を見上げた。
教室内はまた沈黙に満ち、そんな中、ただ俺たちだけが全てに取り残されたみたいに微動だにしない。

「……僕がいつから、どんな想いで、この背中を見つめていたのか、君は知らないだろうに」

今度こそ、いきおいよく振り返った。
しかしそれよりも先に月島は椅子を半ば蹴っ飛ばすように立ち上がると、ものすごい勢いで駆けだす。ここ数年リハビリにも余念が無かったと言うのは、本当らしい。
待てこの野郎、とすぐに追おうとし、しかし綺麗に使うよう念を押されていたことをこんな時ばかり思い出し、恩師に迷惑をかけるわけにはいかないと慌てて椅子と机を直してから改めて後を追う。
廊下は走らない、なんて少しも守る気の無い、人っ子一人いない校舎の中、夕暮れの鬼ごっこ。

どこかでうまくまかれたのか、気付いたら月島を見失っていた。頭ばかりは働くやつだから、初めから体力勝負で逃げ切ろうだなんて考えていなかったに違いない。
広い校舎の中で一人途方に暮れていて、ふと窓の外を見やる。校庭のど真ん中、黒い影が大きく伸びる小さな人影に気付くことが出来たのは、本当に偶然だった。
ばっと窓に駆け寄り、勢いよくそれをこじ開ける。めき、と嫌な音がしたのなんて、気にしない。

「月島、おまえいつの間にっ……」
「王様!!」

怒声を上げた俺の声を遮るように、月島が叫んだ。大声を出すのは苦手だと言っていたくせに、その声はよく通る。

「誰でもいいわけじゃない。君がいい。バレーをしている、君がいい!君がバレーが出来なくなるまで、僕はずっと君を見ている。その地獄の門の前で、君を待ってる。だから、もしその時が来たら!」

すう、と大きく息を吸った音が校舎の三階にいる俺の元まで届いた気がした。かなり小さいはずの月島の顔の、そこに浮かぶ表情がやけに鮮明に見える気がした。
青春の舞台となったこの場所。そこでまた一つ、忘れられない思い出がうまれる。

「君が寄越したその『才能』の花束の残骸に、『影山飛雄』って名前を付けて、死ぬまで愛でてあげるよ」

怖いと思っていた。バレーを失くしたその先を。バレー馬鹿だと笑われる自分が、それを失くした先でいったい何になるのか。
でもただおまえにとって、その先にいるのが王冠とマントを捨てた、ただ俺という一人の人間だというのなら。
バレーが出来なくなったその先に、おまえがいるというのなら。
それもいいと、そう思えたんだ。

いつか必ずくる、おまえと同じ、おまえが待つその地獄が。
今はほんの少しだけ、待ち遠しい。





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