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□居候影月話その後5
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◆涙



シューズの紐を丁寧に結び、一つ深く息を吐く。
右から結ぶだとか、左から結ぶだとか、二重にだとか。靴紐に纏わるジンクスは色々あるらしいけれど、俺にとってのそれは、左から。
高校三年目の最後の春高決勝戦。俺の緊張をほぐそうとしたのか、それとも自分の緊張をほぐそうとしたのか。なんにしろ、いつも通りを装った笑顔でそいつは博識ぶり、ねえ知ってる?と聞いてもいない薀蓄を垂れ流した。
その時語られた内容はもう忘れてしまったけれど。
そういうジンクスがこの世に存在する、ということと、そいつのそれが右からであることだけは、今もよく覚えている。

「なあ、影山。おまえそれ、ほんとにコートまで持ってくつもりか?」

まぶたを閉じ集中していた俺に、チームメイトの困惑したような声がかけられた。邪魔するなとばかりに軽く睨むと、そいつは少し口元を引きつらせマジかよ、とだけ呟き、しかしそれだけで口を噤み、やれやれとばかりに首を振る。
隣でそんな俺たちのやり取りを見ていたチームメイトも苦笑を浮かべつつ、ちらりと俺が座るベンチの脇を一瞥し、先程俺に声をかけたチームメイトに耳打ちした。

「まあ、プレーに支障が出ないってんなら、なんだっていいさ。花束抱えて出場する選手なんて、当分お笑い種だろうけどな」

世界バレー最終日。
その日、俺の所属するチームは、見事栄冠に輝いた。
観客と、そして殺気だった選手たちでごった返す会場内。
一様にぎらぎらと闘争心に満ちた瞳を見せる選手たちの中、ただ一人。
静かな瞳で、傍らに白い花束を携えた男がいたことは、世界中の人々に疑問を呈した。


* * *


「優勝おめでとうございます!影山選手!」
「数年ぶりの帰国だそうですが、母国の空気はいかがですか!?」
「今回のプレーについて何か一言!」
「試合中から話題になっていましたが、その花束はいったい!?」

空港に降り立つなり、何十人もの記者に囲まれた。周囲を騒然とさせた優勝後の突然の帰国宣言だったと言うのに、マスコミというものの行動力には毎回驚かされる。
わあわあと我先に争う声がうるさくて、質問の半分も何を言っているのかが聞き取れない。こんな状態でいったい何を聞き出そうと言うのか。下手したら答えても何を言っているのかわからないだろうに。
今にも将棋倒しが起きそうな光景に呆れつつ、俺は周囲の警備員が開けてくれたスペースを縫うように歩く。腕に抱えた、白い撫子の花束を潰さないように、慎重に。

長年の悲願であった、世界バレーでの優勝は果たした。
あと一つ。あの日、衝動のままに傷つけたあいつに、告げることのできなかった気持ちを。
告げるのならば、今このタイミングで、今ここでしかないと、単細胞だと笑われてもいい。
そう思ったから。

「すみませーん。○○テレビの者なんですけど、ヒーローインタビューお願いしまーす」

喧騒の中から、やけに気だるげな声が聞こえてきた。周囲がこれでもかと声を張り上げる中で、そのやる気のなさそうな声が異彩を放ち、逆に目立っている。
とにかく俺の耳にたまたま耳に留まったその声は、日本国内で最も知名度のあるテレビ局の人間のものだった。
よし、と俺は腕の中の花束を抱えなおし、頭の中で幾度も反芻した言葉をもう一度唱える。コートに上がる前ですら、ここまでの緊張はしなかった気すらした。ごくり、と唾を飲み込み、よし、と気合を入れる。
そうして胸の内を全国に発信しようと、俺は勢いよく顔を上げた。

「……は?」
「いやー影山選手、今回の活躍は見事でしたねー。重ね重ねになるかとは思いますが、優勝おめでとうございますー」

喉元まで出かかっていた言葉が、目の前の光景を見た瞬間疑問となり床に転がる。言いたいことは山ほどあったはずなのに、その後には何も続かない。
ただ目の前で、ずいと俺の前にマイクを突き出しにこにこと、厭味ったらしいまでに清々しい笑みを浮かべる男の顔を、呆然と見つめる事しかできなかった。
癖のある金の髪。蜂蜜色の瞳。無駄に長い身長に、不釣り合いな細い体。

「つ、きしま……?」
「なーんのことでしょーかー?僕はしがないリポーターの一人ですけどー?」

本人の述べるところのしがないリポーターは、すまし顔でそう言ってのけた後マイクを引っ込め、なんてね、と自分でおかしそうに笑った。
俺の様子がおかしいことに気付いたのか、いつのまにか周囲の騒ぎはほんの少し収まっていた。状況がわからないらしい他の記者たちは、不思議そうにこちらの様子を伺いつつ、スクープを取ろうとそのあたりには余念がない。
あれほど念入りに俺の周りを固めていた警備員たちは、目の前のしがないリポーターを摘みだそうとはしなかった。考えてみれば、ここまでの接近を許した時点で何かがおかしかったのだ。
いたずらが成功した子供のような顔で、そのリポーターは。今まさに、俺が言葉を届けようと身構えていた月島蛍は、当然と言わんばかりに俺の前に立つ。

「驚いた?王様」
「お、どろいた、ってか。なんだその、機材」
「あ、なに?僕の名義、嘘だとでも思ってるの?言っとくけど今の僕、本当に○○テレビのリポーターだからね」
「は!?だっておまえ理系専攻って……」
「管理栄養士の資格も取ったよ」
「えいよう、し?」
「何でかわかる?」

す、と月島の顔から表情が消えた。数年ぶりに見るその顔は、大人っぽくなったようにも全然変わらないようにも見える。特別太ったも、痩せたも無い。その態度にも、変わりない。空白の数年間を全て塗りつぶして、別れの日を昨日に持ってきたと言われても、何一つ違和感のない様子。
今月島が浮かべる能面のような、酷く冷たい顔を見るまでは、そう思っていた。
びく、と肩が跳ねる。月島がこの顔を浮かべるのは、酷く怒っている時だと何年かの付き合いで学んでいた。案外態度に現れやすいこいつが、一周回って真顔になるほど、怒っている時。
それはそうだ。だって俺がこいつに最後に言った言葉は、その怒りに値するだけの無神経なものだった。

「わ、るい」
「それ、何に対しての謝罪?」
「おまえに、酷い事、言った」
「『バレーできもしないやつが、偉そうに俺のすることにごちゃごちゃ口出すな』だっけ?」
「っ」
「腹立ったよ。めちゃくちゃ腹立ったし、けっこう傷ついた。不調の君の為にわざわざ好物まで作って待ってたのに、あんなこと言われるなんて」
「つきし……!」
「でもそれ以上に、バレーさえしてれば誰でもよかったって言われたことの方が、もっとずっと腹立たしかったし、悔しかった。君にそんなふうに思われていたことが悔しかったし、君にそんなふうに思わせてたことも悔しかった。めちゃくちゃ怒って、傷ついて、後悔して、泣いたよ。他の誰に同じことを言われたとしても、あんなふうに荒れなかった。黒尾さんでも、山口でも、日向でも、兄貴でも、たとえそれが世界的なバレーボールプレイヤーだったとしても。君に言われたからこそ、僕は怒った」

俺に口を挟ませる隙を、月島は与えない。ただ無表情のまま淡々と、言葉を告げる。
冷静なように見えて、早口になるのは月島の感情が高ぶっている時の癖だということを、俺は知っていた。

「怒って怒って、でも君の言うことも最もだと思った。僕はただあの頃のままでいてくれる君に縋っているだけなんだって、目を逸らしていたかったことに向き合わされた。なんにも考えないまま、ただ定期的に君の傍で君のバレーを見ていられれば、僕はそれでよかったのに。でもそれじゃあ本当は満足できてないことを気付かされた。全部全部、君のせい」
「……」
「君に馬鹿にされたのが悔しかった。君を見てることしかできない自分が悔しかった。だから、考えた。どうすればまた、僕もそこに立てるのかって。それで選んだ道が、これだよ」

ずい、と月島がもう一度俺の前にマイクを突き出す。唇に触れそうになり、反射的に半歩後ろに下がった俺に、しかし月島は更に詰め寄った。逃げることを許さない、強い視線で。
俺を睨みつけるように、真っ直ぐに見つめる。

「君が栄冠を勝ち取ったら、一番に最高の舞台でその言葉を受け取るのは、絶対に僕だって決めていた。もう同じ場所で戦うことはできないけど、僕は君の、そして世界中のスポーツ選手のプレーを、誰より真剣に、誰より長く、たとえその選手たちがそのスポーツから足を引いても、僕は追い続ける。たとえ君がバレーを止めても、僕はそんな君よりも長くその舞台にいる」

突拍子のなさすぎる出来事に、頭の中は未だ混乱の渦の中だと言うのに、笑みが零れた。
誰だ。こいつのことを冷静だのクレバーだの言ったやつは。こんなやつ、ただの負けず嫌いの大馬鹿野郎だ。
誰だ。こいつのことを春だとか、頭が沸いたことをぬかしたやつは。そんなおとなしいもんじゃない。
迎えにいくどころか、引きずり込む勢いじゃないか。

「これから僕は、たとえ君が拒んでも君を追い続けるよ。君がこれからまたトスを上げる姿を。仲間に見放されそうになる姿を。栄冠に輝く姿を。スランプに陥って悩み苦しむ姿を。バレーが好きで好きで仕方がないって顔をする、君を。そして、いつか君が何らかの形でバレーを手放す時の、間抜け面を。僕はいつまでも、誰よりも、君の為だけに、待ち続けてやる」

口元から離されたマイクが、とん、と俺の胸を叩いた。そして月島は、不敵に笑う。
いつか最強と謳われた、そんな選手の全力スパイクをドシャットしてみせた時と同じ顔で。

「君がいつか必ずくぐることになる地獄の門の前で待ち構えるのは僕だ。ざまあみろ!」

いつの間にか静まり返っていた空港内に、月島の高らかな声が響き渡る。時折漏れ聞こえる声は喧嘩?記者と影山選手が?止めなくていいの?だなんて、事情をよく知らず内容を鮮明に聞き取ることができない面々は不安げに呟いていた。
そんな中、俺は黙り込んだまま俯いていた。胸元に突きつけられたマイクをじっと見つめ、そしてそれがのろのろと離されていくのを、ゆっくりと視線で追う。
顔を上げた先では、つい先程までムカつくくらいのドヤ顔を浮かべていた月島が、居心地の悪そうな顔をしていた。眉を潜め、困惑したように俺の様子を伺う姿に、長すぎる沈黙に戸惑っているのだと、今更気付く。

日向が言っていた言葉の意味が、ようやくわかった。そりゃあ、知り合いが大幅に道を踏み外そうとしてたら誰か止めてくれと思うだろう。
どう考えてもこの結論を導き出したこいつは冷静じゃないし、そもそも普通に考えれば、うまくいく確率なんて限りなくゼロに近かったのだ。
だって、そうだろう。
こいつは人生を棒に振ったのだ。それまで勉強してきた全てを、唐突に投げ捨て。それまで少しも、誰も考えていなかった扉の中に、むき身で飛び込んだ。
ドヤ顔を浮かべたこいつは、気付いているのか。
自分が俺の為に、人生を投げ打ったことに。

「っは、はは、はははは!」

静かな空港内に、俺の笑い声だけが反響する。唐突なそれに月島だけでなく、周囲の他の記者や野次馬、挙句の果てには警備員までもがびくりと肩を跳ねさせる始末。
腹が痛くなるほど笑っていると、少し目じりに涙が滲んだ。笑いすぎて泣くなんて、そりゃあもうよくあることだ。まったくもって、俺たちの間では珍しいことでもなんでもない。
怒りでも、悲しみでも、悔しさでも、こいつの前では絶対に泣いてなんかやらない。こいつが泣かないのだから、俺だって。
だからこれだけが、こいつの前で見せる、特別な涙。

「月島!!」

手にしていた撫子の花束を、俺は思い切り月島の顔面に向けて投げつけた。予想だにしていなかったらしい動きに、月島はそれをもろにそこで受け止め「ぶっ!」と間抜けな声を上げる。
その代わり、とでも言うように月島の手からマイクをもぎ取った俺は、すう、と大きく息を吸った。
言いたいことは、あらかた言われてしまった気がする。先を越されたことが悔しい反面、そのあまりの馬鹿らしさと、あほらしさと、潔さと、かっこよさに、俺の腹も完全に決まった。
もう悩む必要なんてない。大馬鹿野郎は、お互い様だ。

「好きだ!!結婚してくれ!!」
「は、はあああああ!?」

絶叫は、目の前の男から以外も聞こえた。
よく見たら周囲を取り巻いていた警備員は、日向や山口、田中さんや大地さんといった見知った面々で、そんな滑稽にも程がある光景の中、俺はやり返したとばかりに月島ににやりと笑いかける。
呆然とした顔をしていた月島も、すぐにその意図を理解したようで、ひきつった笑みと共にやられた、と口の形だけで呟いた。

「花言葉は、『才能』だろ?」
「は?」
「おまえの名前付けて愛でろって言うんだったら、おまえだって同じこと、してくれるんだよな?」
「ば、っかじゃないの」
「お互い様だろ、ばーか」

何かの為にバレーをするなんて、それまで考えたことはなかった。バレーはしているだけで楽しいし、うまくなるだけで嬉しい。そこにそれ以上の意味も、それ以下の理由も求めたことなんてない。
でもその先で、俺がバレーをすることで喜ぶやつがいるのなら。いや、こいつが喜んでくれると言うのなら。
俺の全てだって言うこのバレーを、おまえのためにプレーするのもやぶさかではない。
その花に俺の名を込めて、俺の全てを込めて、俺に全てを差し出したそいつに、贈ってやる。
拒否権なんて、今更あると思うな。

「っほんと、君は王様だね!!」

高校の頃、周りがいくら泣いても涙一つ見せなかったこいつが泣くようなことがあったら、思い切りからかってやろうと思ってた。
でも嬉し涙ってやつならノーカンにしてやるから、好きなだけ泣きやがれ、馬鹿野郎。





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