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□居候影月話その後4
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◇花



「すんません、今日の午後練、抜けてもいいっすか?」

体育館の片隅。あちらこちらと動き回る選手の様子を逐一観察しては、手にしていた紙に何やら書きつけていたコーチは、俺の言葉に顔を上げた。
かつては名だたる選手だったらしい、最近は少しお腹の肉具合が気になっているそうなその人は、しかし変わらない精悍な顔立ちをほんの少し不思議そうに歪め、首を傾げる。

「何か、外せない用事でもあるのか?」
「そんなところです」
「こんなタイミングで……といいたいところだが、ここのところ調子も良さそうだし、まあいいだろう。了解した」
「ありがとうございます」

わざとらしい顰め面を浮かべた後、すぐにからりと気持ちよく笑ったその人とは、もう片手の指では過ごした歳月を測れないほどの付き合いになる。何かと周囲とトラブルになりやすい俺に気を配り、根気強く向き合ってくれた。この人にはいくら感謝してもしきれない。

「おう影山―!もうすぐ大会だってのに、余裕じゃんか。普段は馬鹿みたいにバレー一筋なおまえにそこまでさせる用事って、いったいなーにかなー?」

どこから聞いていたのか。つい先程まで向こうで練習に勤しんでいたはずのチームメイトが半ば突進するように肩を組んできて、俺はその勢いを受け止めきれず少し前につんのめった。ただでさえがたいのいい選手に全体重をのせたタックルをきめられるのは、それなりに鍛えたつもりでもさすがにきつい。
ぐえ、とカエルの潰れたような声を上げながら振り向いた俺は、きっとそいつを睨みつけた。しかしこちらも長い付き合いである。今更俺の睨みに臆したりするようなやつでないことは、わかりきっていた。
数秒前の行動を咎めるのすらも億劫で、俺はつんとそっぽを向く。

「別に、なんでもいいだろ」
「いやいやー、俺はこれでも心配してるわけよ?ハニーちゃんに捨てられて以来恋人の影も無かったおまえに、これはもしや春がきたのか!ってね」

おおげさに嘆きを乗せた言葉を吐きながら天を仰ぎ、うんうんと何度も頷いて見せるそいつは、俺の元同居人が練習を見に来ることが無くなってしばらく、呑みに行くか?飯驕ってやるぞ?なんだまあ、元気出せよ!とお節介にも程がある慰めをしてきたやつだった。
さんざん否定し続けていた俺たちの関係をどうとらえていたかなど、推して知るべしだろう。
よりにもよって面倒くさいのに捕まったとげんなりしつつ、まあでも、気にされるのも無理はないかと、他にも訝しげに向けられるいくつかの視線から意識を逸らしつつ諦める。
一週間もしないうちに、俺が身を置くこの界隈で最も誉高い大会が待ち構えている。コーチや、仲間と、今までの全てを出し切るための大会が。
そんなタイミングで私用で練習をさぼるなど、普段誰よりもオーバーワークを心配されている俺が言いだしたとあらば、怪訝に思われるのも仕方がない事なのかもしれない。
どうあしらったものか。投げやりに考えていた頭の中で、ふと悪戯心が疼いた。唐突に湧き上がったどっかの誰かさんの嫌味ったらしい笑顔に、そういうのは開き直ったもん勝ちだよと言われたのを思い出しつつ、ほんの少し口元を緩める。

「そうだな、春は来るかもな」
「は?」

ついほんの少し前まで不機嫌を露わにしていたはずの俺が、突然にんまりと笑みを浮かべ始めたのだからそりゃあ驚くだろう。ぽかんとした表情を浮かべるチームメイトの腕からするりと抜けだし、俺は走り出すと同時に告げた。

「ちょっとハニーに花買ってくる!」
「え、は、はあ!?」


* * *


チームメイト複数人の絶叫を背に受けつつ走った先。辿り着いたのは、それまでほとんど意識にすら留めたことのない街の花屋だった。ピンクと白の愛らしい、しかし俺みたいな人種とはほぼ無縁の外装に飛び出してきたあの勢いはどこへやら。店の前で立ち止まり、どうしたものかと挙動不審に視線を彷徨わせる。
赤、オレンジ、ピンク、黄色。色とりどりの花が並ぶ中、落ち着きなく店の前をうろうろする俺に、このまま放っておいても埒が明かないとでも思われたのだろう。店の奥から柔らかく微笑むポニーテールの店員が出てきた。

「いらっしゃいませ。お客様、何かお探しですか?」
「あ、えっと、はい。いやでも、あるかどうかわからなくて」
「なんて名前のお花でしょうか?今店頭に無ければ、お時間を頂けるのならお取り寄せすることも可能ですよ」

ああ、なら、お願いしますと頷き、俺は花の名を口にする。あまり聞かない名前だったらしく、一度聞き返されたのち、はい、わかりましたと頷かれた。
些細な会話だったかもしれないけれど、今でもよく覚えている。あいつが俺にぴったりだと言った花。ずらずらと花言葉を並び立て、そうしてその後、切なそうに笑った。
あの時はまだわからなかったし、わからないままでもいいと思っていた。でも今なら、少しはわかる。あの時のおまえが、どんな気持ちでいたのか。そして俺の気持ちが、なんだったのか。

「本数は……了解しました。随分と豪華なんですね。彼女さんへのプレゼントとかですか?」

エプロンのポケットから取り出した小さなメモ用紙に俺の言葉をメモしていた店員が、にこり、と楽しげに尋ねたのを聞き、俺は思わずまばたきをした。その反応が予想外だったのか、俺の表情に少しだけ困惑したような顔をした店員に、俺はふはっと吹き出すように笑いながら、頷く。

「そうっすね。ちょっと、プロポーズでもしようかと思って」

告げた花の名は、ホワイト・ダイアンサス。
白い、撫子。





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