book1

□居候影月話その後1
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◆喧嘩



す、と空にかざしていた手を無造作に下ろす。指先の隙間から零れ落ちる光は、まばたきの残光に消えてしまいそうなほど儚く、小さい。
見上げるそれは、人工のものではない。まぎれもなく自然の中にある、本来の姿。
五分で見飽きてしまって見上げるのを止め、俺はいつも通りの帰路を、再び辿り始めた。
思い出していたのは、どれくらい前のことになるだろうか。か細く星のまたたく夜空を見上げながら感傷に浸っていたなどと言えば、その主要人物として登場していた男は鼻で笑うだろう。
月島蛍と。字面だけならば儚く微笑む美少女を想像してもおかしくないような、やけに綺麗な名前をそっとなぞる度に、今でもこの胸はテグスで締め付けられるような痛みを覚える。
いつも通りの帰路を辿る。倦怠感を訴える身体、道行く人々の様子、空に昇る、艶やかな月。冷えた汗から駆けのぼる悪寒が鼻をくすぐり、一つくしゃみを落とす。この痛みを覚える前と後で、この光景の中に変わったところなんて、何もない。
ただ一つ変わったとしたら、そう、神経質な同居人のせいで、ほんの少しくしゃみの音が小さくなったことくらい。

『王様さあ、ちょっとは我慢するとか、せめて手で口を覆うとか、そんなこともできないわけ?』

心底嫌そうに眉を潜める表情は、他の何よりも見慣れたものだった。呆れたような、嘲笑するような、小馬鹿にしたような。そんな全てをないまぜにしたような表情を浮かべることのできるあいつは、無駄に器用だと思う。もちろん、悪い意味で。
高校時代。同じバレーボール部に所属している頃から、決してウマが合っていた訳ではなかった。むしろ周囲には、犬猿の仲だと称されて久しい。目を合わせればお互い顔を顰め、そのまま五秒も放っておけば軽口の応酬が発生する。それが俺、影山飛雄と、月島蛍の間柄。
しかしそんな俺たちの関係は、足を壊しバレーをすることが出来なくなった月島が、遠路はるばる海を渡り、プロチーム入りしアメリカに身を置く俺の元に居候を始めてからというもの、少しずつ変化していた。
初めに月島が俺の元を訪れたのは、とある年の夏休み。行き先を誰にも告げることなくさんざん周囲にも迷惑をかけた月島は、しかしその休みの終わりには誰もが拍子抜けするほどおとなしく帰って行った。
おんぼろのくせに、無駄に広いアパート。一人でいることが当たり前だったはずなのに、住人が一人減ってからしばらくは、余分なスペースを酷く持て余した。胸の内にぽっかりと穴が開いたような、部屋の温度が少し下がったような、そんな感覚。
しかし目まぐるしく進む時の中でそんなことを気にしている暇は無くて、気付いたら元通りの生活に慣れていた。寝ても覚めてもバレー。それで十分、俺は満たされていた。元より、寂しいだとかなんだとか思う回路は、俺にとってバレーのずっと奥にあるもので、それは滅多に働くことが無かった。
だというのに、その年の春休み、月島は再び俺の元を訪れた。何故かブラジル旅行のパンフレットがいっぱいに入った紙袋をキャリーケースとは別に引っさげ、いつかのよう廊下で蹲っていた月島と夜中に大喧嘩になったのは言うまでもない。
人の都合も考えず勝手に来るな。百歩譲って、せめて前もって連絡しろ。月島の得意分野であるはずの正論できっちり対抗したというのに、それは欠片も悪いなどと思っていないふてぶてしい笑みと。

『そんなの、君の間抜け面が見たかったからに決まってるじゃん』

などという自己中心的で人の迷惑を考えない非常識な言葉により一蹴された。
そのくせ腰を上げて固まってしまったらしい身体を伸ばしながら君んちの廊下汚い、などとぼやくものだから、何度そのすました顔面を殴りつけてやろうと考えたかわからない。しかしその一方で、今でも長期休みの前になると廊下を掃除する癖が付いてしまった自分に、酷く苛立ちを覚えた。
月島の自分勝手な行動はそれだけに留まらず、その春休みに俺たちはいつかの宣言通り本当にブラジルに行った。さすがに全員の予定が合う日なんてものは無かったようだが、月島に丸投げされた旅行計画を黒尾さんと木兎さんは見事結構に持ち込んだようだ。
だいぶ大所帯となったその旅行には、もちろん俺も行った。イグアスの滝の前でうるさく騒ぎ立てる日向や田中さんに。月島は酷く顰め面で。しかもその上黒尾さんと木兎さんにツッキーはご機嫌ななめなの〜?発案者が楽しまないでどうするよ〜?とからかわれて更に眉間の皺を深くしていたのを、それまでさんざん月島に振り回されて鬱憤が溜まっていた俺は口元に浮かぶ笑みを噛み殺しながら眺めていた。
他にも、台湾やらドイツやらロシアやら、休みを見つけてはみんなとだったり、時には二人でだったり、近い場所も遠い場所も、色々なところに行った。色々なことを、した。次はここに行きたい、なんてパンフレットやら旅行情報誌やらを抱えてくる月島は、無表情ながらも楽しそうで。唐突な提案に律儀に嫌そうなポーズを取っては、結局全部付き合った。
季節は幾度、廻っただろう。いつの間にか、一年の三分の一くらいを月島と過ごすのが、当たり前になっていた。顔を合わせれば喧嘩ばかりなのは相変わらずなのに、それを居心地がいいと思う。どんなに酷い喧嘩をしても、トイレに立って帰ってくれば夕食のメニューを聞いているなんてことがザラだった。
口下手な俺には会話が無くても沈黙が重くない相手は貴重で、会話をしたらしたでいちいち一言多いにしても、打てば響くように返ってくるそれは退屈しない。なにより、バレーの話にも飽きずに付き合ってくれる。
俺たちを繋ぐものに、明確な関係性も言葉も、何も無かった。でもそんな曖昧な関係のままで、ずっとこうしていられればいいと思っていた。いつからか、オレンジ色の外灯が灯る扉の前に、長い体を窮屈そうに折りたたむ人影を探すようになっていた。

けれどもう、その姿がそこに現れることはない。おかえりと、想像していたよりもずっと穏やかな声で迎えるあの光景を叩き割ったのは、確かにその関係の停滞を望んでいた俺自身だった。
おもむろに空を見上げたところで、名前も憶えていない星の王様は見つからない。ただぽっかりと夜空に浮かぶ金色の満月が視界に映り、またこの胸は痛みを訴える。そう言えば、名前が同じくらいで単純だと、あの男は笑うだろうか。

野菜だって、果物だって、水晶だって、ダイヤだって、天然ものの方がずっと高価で、綺麗だとみんなに褒めそやされる。
けれど今見上げるこの星空は、いつか見た人口もののそれよりもずっと色あせて見えた。


* * *


月島が俺の元から去ったのは、とある大きな大会が終わった、その翌日。
その日、いや、それ以前から俺はスランプに陥り、ずっと、余裕が無かった。

「影山―!誰の為にやってると思ってんだ!集中しろ!」
「すんません!も一本お願いします!!」

前日の試合で俺はコンビミスを連発し、挙句の果てにはベンチに下げられるという大失態を犯していた。いつもは自分の手足のように動くボールが、思った方向に飛ばない。スパイカーとのタイミングを合わせようと意識すればするほど、ずれていく。
大会の翌日だというのに、どうしても練習したいという俺の為に朝からわざわざ足を運んでくれたチームメイトに感謝する余裕も無く、俺はひたすらにトスを上げていた。

「王様さあ、不調の時はおとなしく休んだら?今無理してもたぶん意味ないって」
「うるせえ、次は決める」
「頑固なんだから……」

朝からわざわざ、別に呼んでもいないのに来たやつの中には、月島の姿もあった。苛立つ俺に珍しく気を使っているのかなんなのか、朝から黙ってもくもくと朝食を出し、そして何も言わずに練習に付いてくる。呆れたように口を開いた今の助言が、今日の第一声だった。
はあ、とわざとらしくため息を吐く割に、その顔には真っ当な案じるような色が浮かんでいる。嫌でも心配されているのだとわかった。あの、月島にすら。
わかっている。スランプなんて、それこそ何回も経験してきた。その最中ではいくらもがいたって、焦ったって、状況は好転しない。むしろ焦れば焦るだけ空回り、悪循環なのだと。
こういう時は、ゆっくり休んで、時が解決してくれるのを待つ。目を閉じてひたすらに百を目指して朝を待つうちに、気付くと眠りに落ち夜が明けているように、いつか必ず終わりは来るのだ。
まだかまだかともがき幾度も目を開け絶望することに、意味なんてない。わかっている。それでも、気持ちばかりがはやり身体が付いてこないことが、酷くもどかしくて怖い。

「月島君も朝早くからご苦労だねー、影山が心配?」
「別に、目が覚めたから散歩ついでですよ。すぐ帰ります」
「またまたー。あ、そうだ、月島君昔MBだったんでしょ?ちょっと付き合ってよ」
「は?嫌ですけど」
「そんなこと言わずにー、暇つぶしがてら一緒に練習しようよ」
「潰す暇なんてありませんし、僕足傷めてるんで」
「無理はさせないからさー」

トスを上げている後ろで、月島とチームメイトのそんなのんきな会話が聞こえてきて、八つ当たりもいいところだと理解しつつ更に苛立ちは増す。茶化すだけなら来るな、真面目に練習しろと、そんな暴言までもが喉元までせりあがり、ギリギリで飲み下した。
体育会系のやつらが集まるチームでは、月島のようなタイプは珍しかったらしい。昔から何故か年上に好かれることが多かったこともあり、いつの間にかチームメイトの中にも月島を構うやつは増えた。こんな風に、半ば無理やり練習に引きずり込まれるのも珍しいことではない。なのになぜか、いつもは気にも留めないそれが、今はやけに鼻に付く。遊びでやっているわけじゃないのだからと、ボールを持つ指先が震えた。

いち、に、さん。
落ち着け、と息を吐く。
し、ご、ろく。
走り出すスパイカーの位置を確認し、ボールに指をかけ。
しち、はち、きゅう。
トスを、上げる。

しゅ、と空気を切り裂きあがったトスは、スパイカーの指先をかすりコートの反対側にあっけなく落ちた。完全に、スパイカーの速度とボールの速さを見誤った、最悪のトス。

「っ、影山!おまえのトス最近速すぎるぞ!」
「す、ませ……」

いける、と思った。それでも上げたトスは少しもうまくいかない。数ミリレベルのずれすらも許さないはずの両手が、今はまるで他人のもののように重たい。
スパイカーから放たれた、若干苛立ちの混ざる声にびくりと身体が震えた。よく聞き覚えのあるそれは、今でもたまに夢に見る。おまえにはもう、付いていけないと背を向ける、警告のシグナル。

じゅう、じゅういち、じゅうに。
ぎゅ、と拳を握りしめ、唇を噛む。
じゅうさん、じゅうし、じゅうご。
目を瞑り、悔しさや苛立ちを、焦りを抑え込む。
じゅうろく、じゅうしち、じゅうはち。
そんな俺を見てふっと雰囲気を和らげたスパイカーの放った言葉に、欠片も悪気なんて無かったんだ。

「はは、あんまり横暴なトス上げられても打てねえぞー王様!」

流暢な発音と共に告げられた『king』という言葉に、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。びくりと大げさに肩を揺らし顔を上げた俺に笑いかけるスパイカーの顔に浮かぶのは、俺を気遣うような色を含む、無邪気な笑み。
しかしそこに、いつかの仲間たちの顔が重なった。嘲笑や侮蔑、嫌悪や憎悪。仲間同士であるはずなのに、まるで敵を見るような目で俺を睨みつける瞳。
すうと指先が冷え、え、と声にならない言葉を落とせば、俺の異変に気づかないスパイカーはくい、とチームメイトに引きずられていく月島を指差す。

「おまえのハニーが読んでる『王様』っての、こっちでは『king』って意味なんだって?」

日本でのあだ名だったのか?かっけーなー!なんて続けられる言葉は、耳には入ってこなかった。ただハンマーで殴られているかのように頭が痛く、全身に冷水を浴びせかけられたように冷たいのに、喉の奥だけが燃えるように熱い。
脳裏にフラッシュバックするのは、次第に温度を下げていく仲間の視線に、活気がなくなる応援の声。苛立ちながらトスを上げる自分と、違和感。トスを上げ、そしてその先に、誰もいない。誰かのために上げた、誰にも触れられることなくころりと床に転がる、ボール。振り返った先の、おまえにはもう付いていけないと背を向ける、仲間たち。

吐き気がこみ上げて、思わず口元を手で覆った。そんな俺を見たスパイカーが焦ったようにこちらに駆けてきて何かを言っているが、何を言っているのかなんてわからない。何を言っているのかわからないのに、その声は自分を糾弾しているように聞こえた。

百数えれば、夜はきっと明ける。烏野にいた時だって、そうだった。
あの夜から俺を救い上げてくれたのは、どこまでも飛翔する黒い羽根を持った烏と、まばゆい太陽の光。

無意識に月島の姿を探したのは、ただ、寄る辺が欲しかったのかもしれない。月島が青春の残像を求めて俺の元に来たように、俺も孤独の玉座から救い上げてくれた仲間の面影を、その姿に求めたのかもしれない。
幾度も衝突した、意見が割れることが当たり前で、お互いにかけた言葉は文句が一番多かったかもしれない。
でもそんな月島ですら、最後まで俺を見はなすことは無かった。
だから決して、あいつだけは、俺から離れていかないのだと、そう。

「月島!ナイスキー!」

隣のコートから聞こえてきた声に、自分でも驚くくらいに緩慢な動作で首を回した。その視線の先で、月島は。
月島は、笑っていた。
もうずいぶんと長い間、見ていない、晴れやかな顔で。セッターによって上げられたトスを、打っていた。
そのセッターは俺と正セッター争いをしているやつで、昨日の試合でも、俺の代わりにコートに立っていた。どこか及川さんとプレイスタイルの被る、その人。
圧倒的な技巧があるわけではないけれど、選手の顔色や調子を見て、たとえ初対面のやつ相手でもそいつにぴったりとあったトスを上げられるタイプのセッター。

「影山?大丈夫か?もう今日は上がった方が……」

なんでこんなに、置いて行かれたような気持ちになるのだろう。
月島があの頃の残像を求める限り、あいつは必ず俺の元に来るのだと、漠然とそう思っていた。それはこれからも、ずっと、変わることの無い日常として、当然のように傍にあるものだと。
そう、思っていた。

「……いえ、大丈夫です。続けさせてください」





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