book1

□影月居候その後プロローグ
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◇Prologue



頭上に真っ直ぐ手をかざすと、指の隙間から宇宙が見えた。
黒い絵の具で塗りつぶしたような闇の間を縫い零れ落ちる光を見ていると、それが酷く近くにある様に感じる。思わず何かを掴むように手を結ぶが、五本の指に何かが触れるようなことは無い。指が隠していた星が現れ、そして拳大の闇がまた新しく生まれただけ。

「昔はさ、僕はいつか宇宙に行くんだと思ってた」

中央に置かれた投影機から響く何かを焦がすような音が鼓膜を揺らすのを遮り、ふと隣からそんな言葉が聞こえてきた。俺は真上に向けていた視線をそっとずらすと、ずり、と後頭部を支えているくすんだ緑色の椅子と髪が擦れる感触を覚える。薄闇の中目を凝らしても、見えるのはただ、人の形を模した濃い影絵だけ。
それはあちらも同じだろうに、音か、視線か。とにかく俺に気付いたらしい隣の椅子に身を預ける男は、分かりやすく口元を緩める。

「小学校に行って、中学校に行って、高校に行って、大学に行って、就職して。そんな当たり前のことみたいに、僕はいつか宇宙に行くんだと、そう思ってた」

そして、何がおかしいのかくく、と今度は声まであげて笑った。
隣の男、月島がプラネタリウムに行きたいと言いだしたのは、俺が珍しく練習が無い、とある休みの日のこと。このふてぶてしい居候が思い付きで物事を口にするのは珍しいことではなく、むしろバスやら電車で数時間、下手をしたら船やら飛行機で数時間を費やさなければいけない場所でなかっただけ、マシなくらいだった。
久しぶりのオフだったから、少し身体がなまらない程度のストレッチとジョギングをしたあと、溜めていた試合のDVDや雑誌を見たり、練習メニューの見直しをしようと思っていた最中の提案に、遠慮なく顔を顰める。しかしそんな俺を見ているのかいないのか、当の月島はどこ吹く風でもくもくと昼食のピラフを口に運んでいた。
別に一緒に行こうと誘われた訳でも、一緒に行かなければいけないわけでもない。しかし俺はため息を一つ落としつつ、ポケットから携帯を取り出し検索メニューを開く。
俺がこのまま黙っていれば、月島はきっとこの数時間後にはふらりといなくなり、俺がどこにあるかも知らないプラネタリウムに行くのだろう。俺を巻き込むことなく、今の言葉が無ければ、何をしてきたのかもわからないままに、その放浪は終わる。
昔から、月島蛍という男はそうだった。傍から見れば、ある日突然に。その友人が言うならば、ぐちゃぐちゃになってしまった時、自分で自分が整理できなくなってしまった時、月島はふらりとどこかに姿を消す。
人騒がせだ、はた迷惑だ、そう思いつつも放っておけなくて。そもそも現在のような関係に収まっているのも、月島のその悪癖が原因だ。
今回の衝動的な発言がぐちゃぐちゃになっているから、という訳ではないのだろうが、多少その名残があるのかもしれない。これまで自分の中で溜めて溜めて溜めて、そして溜めきれなくなって爆発した末の行動があの放浪だったと言うのなら、今のように小出しにして発散できている方がよほど健康的だろう。
顔を合わせれば喧嘩していたような頃から考えれば、目を瞠るほどの進歩だ。こんな、まるで相手を労わるかのようなことを考え、あまつさえそれに付き合うなんて、出会ったばかりの俺たちを考えれば天地がひっくり返る方がよほど可能性が高いように思えた。
しかし今ではこいつの突拍子も無い提案に乗るのが、ほんの少し楽しい。眉間に皺を寄せながらも、今度は何が出てくるのかと、フォーチュンクッキーを齧った時のような高揚した気持ちが、その裏には確かにあった。

付近の地名とプラネタリウム、と単語を並べて検索をしてみたら、最寄りのバス停からバスに乗り十分もしないうちにプラネタリウムが存在することを、初めて知った。よくよく見れば、たまにロードワークで通る寂れた建物が実はそうだったらしい。
遠出を覚悟していたのに拍子抜けし、決して立派ではないがここでいいかと公式ホームページの画像と共に尋ねれば、月島は見れれば何でもいいと素直に頷いた。
そうして赴いた小さな、日本で言う科学館のようなものの中にある申し訳ばかりのプラネタリウム。ところどころ亀裂が入る鼠色のコンクリートに覆われた建物を見て、これは中も知れたものだと勝手に思っていたが、考えてみたらプラネタリウムなんて自ずから足を向けたことなど無い。
比較対象が無い分、ただ暗くて夜でも無いのに星が瞬くというだけで、俺にとってはまるで魔法のような空間だった。

「行けないのか?宇宙」
「……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、ここまでとは」
「だって前テレビで金出せば宇宙に行ける、みたいなのやってたじゃんか」
「あったね。あれは大枚はたいて数分間宇宙で結婚式なんて、頭の沸いた番組だった」
「だったら別に、行けないことないだろ」
「そういうのじゃないんだって。はあ、単細胞な王様が今だけは羨ましい」
「うるせえ」

黙って満足気に頭上を見上げているうちはその横顔も悪くないと思っていたのに、ちょっと口を開けばすぐにこれだ。馬鹿みたいな軽口を叩きながら、ふといつかどこかで、似たような言葉を聞いたことを思い出した。
視線を頭上に戻し、もう一度その光に手を透かす。動かすたびにちらちらと点滅を繰り返す様を子供のように楽しみながら、俺は微かにひらめいた記憶の尾を手繰った。
あれは、そう。確か俺がまだ中学生だった頃の話。当時チームメイトだった、金田一と国見と、モップがけをしながらなんてことの無い雑談をしていた時のこと。





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