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□月島が影山の家に居候する話
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鋭い角度で床に叩きつけられようとしていたボールが、ぎりぎりのところでリベロのレシーブにより宙に上がる。きちんとセッター目がけて飛んだボールがすらりと伸びた指先に受け止められた瞬間、今まで敵に見えていたそれが一瞬にして味方になる。うまく決まったトスは、この世で一番綺麗だ。放物線を描く軌道も、直線を描く軌道も、全てが美しい舞いに見える。
自分の上げたボールに見惚れる暇もなく、完璧なトスはスパイカーの手により相手コートに鋭く返る。その姿が、日向と被った。
落ちる、と思われたボールが、目の前に飛び出してきたブロッカーによってドシャットされる。その姿が、月島と被った。
ほぼ垂直に落ちるボールが、ぎりぎりで滑り込んだ指先に当たる。その姿が、山口と被った。
今まで、こんなことは無かった。それなのに、ふとすると今自分がバレーをしている場所が烏野の体育館で、周囲にはあの頃の仲間や先輩、後輩が並んでいるような気さえする。集中が乱されているのかとも思ったが、むしろ上がるトスは普段より正確で、むしろ好調なくらいだった。
奇妙な感覚を持て余しながら、それでも丁寧にトスを上げる。もくもくと、課されたメニューをこなしていく。

「お前のハニー、今日も来てるな」

幾度目のトスを上げた時だったか。さすがに少し疲れたのか、手元が狂いトスが見当はずれの方向に飛んで行ってしまった。それを見ていたらしいチームメイトが、さりげなくドリンクのボトルを俺に手渡しつつ、にやにやと笑い楽しげに声をかけてくる。
飲みなれたドリンクをぐ、と乾いた喉の奥に流し込みながら、俺はその言葉を心底不思議に思い首を傾げた。

「ハニーなんて、いません」
「おうおうまたまたー。別に隠さなくてもいいって」
「いや本当に。誰かと間違えてんじゃないっすか?」
「んな訳ねーって。だってここんとこずっと来ては、お前ばっか見てるぞ」

噛み合わない会話。少しも心当たりが無くて俺が眉をしかめると、相手は俺の機嫌を損ねたと思ったらしく少し慌てたように腕を上げた。その伸ばされた人差し指の先は、体育館をぐるりと囲う観客席、そしてそれをさらに通り越し、通路として使われている薄暗い道へと続く。
おもむろに顔を上げたその先。照明の関係でほとんど光が入らないそこに佇む、すらりと背の高い人影に気付いた。薄暗くて遠くて、よっぽど目を凝らさないと分からない。しかし一度気付いてしまえば、その人影は暗がりの中にいるとは思えないほどよく目立っている。
わずかな光を反射するかのように煌めく、金色の髪と瞳。

「あいつとお前、同棲してんだろ?チームメイトがお前の家から出てくるの見たって騒いでたから、間違いねえって」

そんな言葉が聞こえるか聞こえないかのうちに、ばちりとその蜂蜜色の目と視線が合った。口を開くよりも先に身を翻したそいつを、反射的に追いかける。
言葉も無く突然飛び出した俺の背中をチームメイトの慌てたような声が追いかけるが、目の前のことしか頭に無い俺には届かなかった。
今日も?ここんとこ、ずっと?俺が気付いていなかっただけで、あいつは、月島は、ずっとここに来ていた?
ここに来て、そして、俺のバレーを見ていた。

練習場を飛び出した頃には、俺と月島の間に隔たる距離はだいぶ縮まっていた。現役スポーツ選手とブランクのある怪我人ならば、それは別におかしくとも何ともない。
そう、怪我人なのだ。

「───っ、悪化したらどうすんだボゲェ!」

すぐにでもその細い腕を捕まえて無理を強いる足を止めたいのに、思っていたより簡単には追いつけない。速く、速く、と気が急ぐほど、月島の背中が遠くにある気がした。
もどかしさが募り、それはとうとう怒声となり口外に飛び出す。飛び出してから、しまったと思った。
ここまでわざと、知らないふりをしてきた。月島が足を怪我してバレーを止めたことも、失踪して探されていることも、俺を逃げ場所に選んだことも。あえて、気付いていないふりをしていた。そのことが月島にばれているかばれていないかなんてことはどうでもいい。ただ、月島が話さない限り、決して触れないと誓っていた。
案の定、俺の声を拾ったらしい月島はあれだけ全力で逃げていた足をぴたりと止め、その場に直立のまま動かなくなる。距離は簡単に縮まり、あっという間にゼロになる。しかし俺がその背中のすぐ後ろに立っても、月島は動かない。
傷を、抉ってしまっただろうか。どきりとしながらかける言葉を探しつつ、その様子を伺う。しかしそれにしては何やら様子がおかしいことに気付き、俺は少しうなだれた月島の後頭部を見た。そしてそのまま、その視線が向けられているであろう先を辿り、ああと脱力する。
月島が足を止めたのは、植え込みと植え込みの間。それらが途切れた隙間に植えられた、一本の木の下。そこに置かれた一つの段ボール箱と、その中に収められた二匹の猫を見つけたからだった。
グレーがかった白い毛並みの、頭がやけにツンツンしているうるさいほどに元気な猫と、黒いふわふわした毛と愛想の無い三白眼を持つ落ち着いた猫。嫌な予感を感じつつそろりと月島の隣に並びその横顔を伺うと、月島は先程までの逃亡劇など無かったかのように真顔で俺を見つめ、その二匹を順に指差した。

「……ボクトさんと、アカアシさん」

やはり、そうなるのか。怒りを通り越し呆れを覚え思わず項垂れる俺になど構わず、月島はよいしょと段ボール箱を抱え上げる。もはや静止する気力も無くその動作を眺めていたが、白い猫に飛びつかれそうになりよろめく月島が見ていられなく、半ば強引にその箱を奪い取り一度練習場に戻る旨を伝えた。
自分が持つ、などとごねることも無く、ただぽつりと練習は、と尋ねられ、どうせもう終わるところだったから構わない。このまま一緒に帰ると答えた。すると月島は俺の返答に満足したようで、不気味なほどおとなしく俺の横を歩く。
戻ったらおそらく、いや当分の間はからかわれるだろうけど、それはもう高校時代のチームメイトの一点張りで通すしかない。実際、そうなのだから。
そんなことを考えている間も、腕の箱の中ではボクトさんが、あの梟谷のエースを思わせる快活ぶりで暴れまわり、それをアカアシさんが、そのエースのお守り役を思わせる冷静さで宥めていた。

久しぶりに走って疲れたのか、月島は帰ってすぐにソファに横になると眠ってしまった。最近やはり、眠っている月島を見ることが多い。昔は合宿でくたくたの時でも、人が多いところでは眠れないと不満を漏らしていたのに。
死んだように動かなくなってしまった月島を心配するかのように、猫たちはその周囲に集まっては控えめにみゃおみゃお鳴いていた。野生に長けた動物たちですらも静と動の境を見失うくらい、その姿はあまりにも安らかなのだろう。
このまま目を、覚まさなかったら、なんて。嫌な想像が胸を過り少し怖くなった矢先、突然電話が鳴り響いた。びくりと肩を揺らすと同時にうるさそうに身じろぎをする月島に安堵しつつ、俺は慌てて受話器に駆け寄り電話に出る。開口一番聞こえてきたそのうるさい声は、日向のものだった。

「おーっす影山!久しぶり!」
「聞こえてるからんな大声出すな……久しぶりだな、日向。何か用か?」
「なんだよー用事が無きゃかけちゃいけないわけ?」
「別にそういうわけじゃねーけど……」
「はは、冗談冗談。それに用事ならちゃんとあるって」

月島のこと、聞いてると思うんだけど。
騒々しかった声のトーンが、少し下がった。あれから何か、進展あったりしない?と藁にも縋るような声で尋ねてくる声に若干の心苦しさを感じつつ、ちらりとソファを一瞥してから悪い、何もないと答える。
そっか、そりゃそうだよな。お前今、アメリカだもんな。そっか。
ぽつり、ぽつりと俺に聞かせるつもりもなく落とされる声たちは、しかし確実に俺の中に降り積もっていく。口の中に苦いものが広がった気がして、ごくりと沸いてもいない唾を無理やり飲み込んだ。
少しの無言の後、日向がおれさ、と落ち着いた、小さな声で話し出した。

「おれさ、おれがさ、一番苦しいのわかってたはずなのに。月島はいつも通りだからきっと大丈夫なんて、勝手に思ってた。ううん、むしろいつも通りな月島見て、お前にとっては所詮バレーなんて、そんな程度のものだったんだなって、だったらせめておれより長くバレーが出来た時間、くれれば良かったのになんて、そんなこと思ってた。でも、違うよな。あいつがどれだけバレーに真剣になってたか、おれ達が一番見てたのに。いつも通りな訳、なかったんだよな。しんどくない、辛くないはず、無かったんだよな。おれが、気付いてやるべきだったのに。おれ、自分のことばっかりだった」

なあ、月島、ちゃんと帰ってくるよな?
縋るような声で言われて、一瞬月島ならここにいると教えてやりたくなった。しかし口を開きかけ、すぐに止める。だって月島は、ここにいるけど、ここにはいない。月島の目は、いつもここではないどこかを見つめていた。いつも通りの、無表情の筈なのに、時折やけに辛そうに見えた。眠っているときだけが、やけに幸せそうで。どんな夢を、いつの夢を見ているのかと、もうそこから帰ってこないのではないかと、怖くなった。
ここにあるのは、大きな抜け殻だけ。

「……当たり前だろ。月島は……うちの選手は、んなやわじゃねーよ」

だから俺には、そう返すのが精いっぱいだった。本当なら、月島も、日向も、気の利いた言葉でもかけて慰めてやりたい、奮い立たせてやりたい。同じコートで戦っていた頃なら、それが出来た。でも今は、俺の言葉は一番、こいつらには届かない。
バレーをしている、できている俺には、こいつらの抱える苦しみは、きっと理解できない。
そうだよな、ありがとなと受話器越しに笑う日向の声はちっとも大丈夫そうなんかじゃなくて、思わずぐ、と手を握りしめた。
大事なセッターの手に、そんなことしちゃダメだよ、なんて声がした気がして。はっとして足元を見ると、ヤマグチがどこか心配そうな顔で俺を見上げている。ちょこんと足に乗せられた小さな手に、初めて向こうから歩み寄ってきてくれた黒い毛玉に、すると込めていた力が抜けた。
気づけば他の三匹も足元でうろうろと俺の様子を伺って、みゃあみゃあと小さな声で鳴いている。

「ん?猫の声?影山お前、猫飼い始めたのか?」

その声に、日向も気づいたのだろう。怪訝な声に問いかけられ、俺は口元を緩めながら答えた。

「ああ、小さいの四匹と……あとでっかいの、一匹な」




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