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□月島が影山の家に居候する話
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そのまま月島の居住を許す羽目になったのは、受け入れる理由があったからではなく、追い出す理由が無かったからだ。ちゃんとそのうち出てくし、それなりのお金は払うと言った満足な睡眠を取ったらしい月島に、舌戦で勝てる気がしなかったというのもある。
どうせ、昼間はほとんど練習で家になどいないし、簡単な家事ぐらいならやるという申し出だって決して悪いものではない。プライベートにごちゃごちゃ口出ししてこない、という言わずもがなな条件を叩きつけ、仕方なくその要求を呑んだのだ。
迷惑はかけないと最初に言った通り、いざ居候化した月島は、俺の家に『住む』というより『居る』と表現した方が正しかった。それくらい、存在感と言うものが希薄だったのだ。
洗濯掃除炊事は、日中、俺がいない時間に全て終わらせているようで。帰るといつもきれいに畳まれた洗濯物に整えられた部屋、温かい食事に迎えられた。その精密さは几帳面で神経質な月島らしいと言えばらしいが、全自動の家事マシーンを買ったような不気味さを伴う。
だがしかし当然そんなものは我が家には存在しなくて、とにかく毎日動いてはいるのだろう。けれど帰宅した俺が見る月島はいつも、ほとんど動かず、ろくに口もきかず、ただぼんやりと宙を眺めているかうとうとと微睡んでいる、そんな虚ろな姿ばかりだった。
うっかりすると居るのか居ないのかわからなくなってしまう、外見的質量に反比例したその存在感に、たまに思い出したように寒気を覚える。あのくるくると回る舌は、負の感情を孕みつつよく変わる表情は、いったいどこに行ってしまったのか。口から先に生まれた男が、一度母の胎内に戻りもう一度まともに生まれ直してきたと言われたら信じてしまいそうな、それほどの変わりようだった。
あの最後まで毒たっぷりの皮肉が、嫌味たっぷりの笑顔が、酷く懐かしいと思ってしまう程。

そんな人が変わったようにおとなしくなってしまった男が、しばらくしてなんの前触れもなく猫を拾ってきた。こいつはなんでもかんでも、突然じゃないと気が済まないらしい。
いつもは出迎えなんてしないくせに、というかいったいいつからそこで待っていたのか。玄関の扉を開けた瞬間もふもふとした塊を抱えた百九十オーバー無表情直立不動の男に出迎えられた俺の気持ちを十字以内で答えろ。
迫力満載の歓迎にひくりと頬の筋肉を引きつらせつつ、無言で猫の脇を抱えずいとこちらに差し出してくる男の言葉を待つ。しかしやはり、かつてあれほどとどまるところを知らず言葉を垂れ流していた口は無言を貫き、何も語ろうとはしない。
疲れた、早くシャワーを浴びたい。そんな気持ちが先に立ち、仕方なく俺はそれ、どうした、と尋ねかけた。

「散歩してたら、拾った」

良く言うなら非常にわかりやすく端的、悪くいうならさっぱり意味がわからない答えを返してくださった月島は、少しも悪びれた様子が無い。
居候の分際で何をほざいてやがると思いつつ、月島が日中散歩をしている事を、その時初めて知った。

「元の場所に返してこい」

とにかく、動物に関してはいい思い出が無い。さっさとお引き取り願おうと外を指さす。
まさかこの年でこんな事を言う羽目になるだなんて、つい数日前までの俺は予想すらしていなかった。いや、つい数秒前までも、微塵も考えていなかった。
月島は俺の言葉に、思い切り眉をひそめる。しかし、俺の反応は当然のものだろう。むしろ何故不満気な顔をされるのかが理解できない。あまりにも理不尽だ。
そう思いつつ、久しぶりに見たまともな表情の変化にどんな舌鋒を繰り広げられるのかと思わず身構えた俺に、迫ってきたのは予想に反した柔らかな感触だった。ぷに、と鼻先に突きつけられた桃色の肉球。ついでそれは少し離され、今度はその猫の顔が俺の眼前、視界いっぱいに広がる。少し緑がかった色味をした黒い猫。その顔のあたりに時折ぷつぷつと濃い黒の毛が混ざり、更におまけとでも言うようにその額のあたりからはぴょこんとアホ毛が伸びた、どこか間抜けな顔をした猫。
誰かに似ている、などと思ってしまったのが運のつきだろうか。そこから連想される答えを探ろうとし、その前に月島の口が開いた。

「ヤマグチ」
「は?」
「この猫、ヤマグチって名前にするから」

勝手に決定事項にするな馬鹿野郎と怒鳴ろうとし、しかしそう言われてみるともう山口にしか、高校時代のチームメイトにしか見えなくなってしまう。そして一度そう思ってしまえば、決して動物嫌いでも山口が嫌いな訳でもない俺には、追い出すことが出来なくなる。
それを全て見越した上で言っているのだとしたら、月島はとんだ策士だ。

「……ちゃんと、お前が面倒みろよ」

折れるのが悔しくて、ぐぬぬと歯を食いしばりながら、しかし折れる以外の選択肢を持たない俺はそう返すしかない。妥協を口にした俺に、月島の代わりなのかなんなのか、その山口似の猫は喜びを表すかのように細い腕の中でばたばたと暴れまわった。
そのあまりの勢いに顔を顰めた月島が、「うるさい、ヤマグチ」というと、猫は途端に動きを止めにゃーとどこか申し訳なさそうに、しかしどこか楽しそうに鳴く。
その鳴き声がどうしても「ごめん、ツッキー!」と言っているようにしか聞こえなくて、俺は疲れているのかもしれないと思いつつ痛むこめかみを親指で押さえた。

* * *

ヤマグチは、本当に山口なのではないかと思う程ちょこまかと月島の後ろを付きまとっていた。それはもう、月島が歩けば歩き、月島が座れば座り、月島が眠ればその隣で丸くなり眠る、といったように。
あまりの従順ぶりに月島も最初のうちは「なんなの、君犬なの?それとも山口なの?」と呆れたような顔をしていたが、なんだかんだで邪険にすることはなかった。猫がこれほど人に懐く生き物だと知らなかった俺も初めの内は驚いたが、数日もすればそれも見慣れた光景になってしまう。似たような光景を、ずっと見てきたというのもある。
しかしそんなヤマグチも、俺にはちっとも懐かなかった。こいつもポテト好きみたい、なんて言っていた月島に倣い控えていたジャンクフードをわざわざ購入しその口元に差し出してみるも、ツンとすげなく無視されてしまい話にならない。いや、怯えられているのか。ヤマグチはするりと俺から逃げるとあっさりと月島の膝に収まってしまった。
行き場を失ったふにゃふにゃのポテトは、しょっぱい。

やっぱり動物なんて飼うものじゃないと半ば拗ねながら決意を露わにしたとある日。家に帰ると何故か、猫が繁殖していた。
片方は月島の肩にしがみつき、どこか不安げに身を縮こまらせている。時折落ちないようにじたじたと暴れまわる度に当たる手足の爪が痛いのだろう、月島は時折顔を顰めていた。
そして何故か増えたもう片方。そいつは月島の腕の中にすっぽりと収まり、にやにやと勝ち誇った笑みを浮かべている。
玄関の扉を開けてすぐに月島。この構図にはしっかりと覚えがあった。そしてこの後に続くであろう展開が読めてしまう自分の、こんな時ばかりは高い学習能力が憎い。

「な・ん・で、増えてるんですか、コラ」
「……」
「何とか言え」
「……クロオさん」

ずい、と腕の中のものを俺の眼前に突き出しながら呟いたのは、おそらくまたその猫の名前なのだろう。聞き覚えのあるそれに脳内検索をかけると、高校時代ライバルであった音駒の主将の顔がヒットした。黒々とした毛並みにどのような工程を辿り出来上がったのか謎なトサカ。にやにやと人を喰ったような笑みまでそっくりで、少し気味が悪いほどだ。
恐ろしいのはこうも知り合いそっくりの猫ばかり生息するこの近辺か、それともそれを目ざとく見つけてくる月島か。ダメ押しとばかりにもう一度「クロオさん」と呟いた月島からの現実逃避も兼ねてそんなことを考えつつ、ため息交じりに「おう」とだけ返した。
どうせこうなってしまえば追い出すことも出来ないのだ。野良猫というだけでも動物感動ものに弱い俺をうずうずさせるには十分なのに、それが知り合いに似てるとなれば追い出すなど、そんな非情なこと出来る筈がない。
どうせヤマグチだって全部月島が面倒をみていたのだ。この先どうするつもりなのかは知らないが、責任は全てこいつにある。ちっとも動物に懐かれない俺には、関係のない話だ。
自棄半分、似たような不愛想のくせにやけに懐かれる月島への嫉妬半分。投げやりにそう考え部屋に上がろうとするも、月島はクロオさんを俺に差し出したまま動こうとしない。そんな月島を不思議に思って首を傾げていると察しの悪い俺に苛立ったのか、月島が小さく舌打ちをした。

「……こいつ、僕にちょっかいばっかりかけてきて全然夕飯の支度すんでないんだよね。だから王様、悪いけどしばらく捕まえといてくれない?」
「え、お、おい!ちょっ、待っ」

そう言うやいなや、月島は俺の腕に無理やりクロオさんを押し付け、そのまま身を翻しキッチンへと引っ込んでしまう。
今まで、嫌われてばかりだったからまともに動物と触れ合えた試しがない。そこに訪れたこの機会は、僥倖と言うべきなのだろうか。慣れない手つきでクロオさんを持ち困惑するも、振り返ることすらしなかった月島を今更呼び戻す訳にもいかない。
ずっと触りたいと思っていたけれど、いざ手にしてみると小さくて温かな毛玉の塊は思った以上に柔らかく脆く、少しでも力を入れたらあっという間にばらばらになってしまいそうで怖かった。今すぐに放り出してしまいたい気持ちと、もっとたくさん触れてみたいと言う気持ちがせめぎ合い、途方に暮れる。
そもそも捕まえといてなんて言われても、こっちだって帰ってきたばかりだ。着替えたりシャワーを浴びたり、やりたいことは山ほどあると言うのに、どうしろと。慣れない状況にぐるぐると思考を回すことで逃げ道を作っていると、不意に手の内の塊がもぞりと身動きをした。はっと我に返りそれを見下ろすと、クロオさんの真黒な瞳と目が合う。
予想以上に、真っ直ぐで鋭い視線だった。思わずたじろいだ拍子に手の力が緩んだのを敏感に察知したのか、クロオさんはするりとそこから抜け出すと、俺が声を上げるよりも先にしなやかに床に着地する。そして焦っている俺になど目もくれず、すたすたとリビングに向かっていってしまった。
その後姿を見送り数秒。そこでようやく捕まえとけと言われていたことを思い出し、慌ててクロオさんを追いかける。元ネタの人と似て、絡み癖があるということだろうか。とにかくこれでまた月島の邪魔をしていようものなら、怒られるのはどうせ俺だ。
そう思って室内に駆け入り……しかし予想に反し、月島はキッチンでもくもくと作業を続けていた。特に不機嫌さも無いその様子にほっとすると同時に、ならクロオさんはどこに、と疑問だけが残る。きょろ、と緩く首を回し、その黒い影はあっさりとソファの上に見つかった。
気持ちよさそうに丸くなるクロオさんはそれ以上動く気も無さそうで、しなやかな上に自由奔放なところまで元ネタ譲りときた。本当に、月島の見つけてくるこの猫たちはいったい何なのだろうか。
何はともあれこれならわざわざ捕まえておく必要も無い。助かった、と安堵しながらもほんの少しだけ湧き上がる残念、という気持ちを押し殺し、俺はシャワーを浴び部屋着に着替えた。学生時代のジャージ、なんてのは定番で、今着ているのは丁度烏野時代のもの。烏野のジャージを着て、そして今、目の前にあの頃のチームメイトがいる。昔は当たり前だったはずの光景が、何故か今の俺の胸にもやりとしたものを落とした気がした。
それを振り払うように、俺はぐしゃぐしゃと濡れた髪をタオルと共にかき混ぜながら、キッチンの中で所狭しと動き回る月島にそっと視線をやる。
月島が料理をしているところを、初めて見た。
いや、もしかしたら今までも俺の前でだってしていたのかもしれない。でもそんな時はたいてい俺も練習メニューをチェックしたり次の対戦相手のDVDを見たりと忙しく、こうしてあえて意識してその様子を見るのは、おそらく初めてだった。
あまり、家庭の香りのしないやつだと思っていた。だからなんとなく、こいつが器用に家事をこなしているところを見ると不思議な気持ちになる。同じ人間なのだから物を作って食べて、服を着てそれを洗濯して。変わらなくて当たり前なはずなのに、何故だかそれに奇妙な違和感を覚える。
それはこいつが、今まで俺に人間味、というものを意識して見せないようにしてきたから、なのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、月島が何か高いところにあるものを取ろうとしたのか少し背伸びをした。しかしそれでも目的のものまではあと少し足りないらしく、あの長身から伸ばされた手が空を切る珍しい様子を眺める。思った以上に苦戦しているらしい月島に、さすがにそろそろ助けた方がいいかと腰を浮かせかけたその時、月島が軽く跳ねた。
あ、という言葉は音になることもなく吐息だけを伴い気体に混じり、カウンターの向こう側の月島の手には何か香辛料らしきものが収められた小瓶が握られている。
そのまま滞りなく作業を続ける姿に、全身から力が抜け倒れるようにソファに全体重を預けた。




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