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□月島が影山の家に居候する話
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影山+月島



いつも通り、きつい練習を終え歩くだけでも悲鳴を上げる身体を引きずりながら帰路を辿る。練習場からの風景も、道行く人々の様子も、空に昇る月だって少しも変わりない。あの頃から場所は変わってしまったけれど、俺が見る光景はいつだって同じ。
しっかり拭いたつもりだった汗が冷えるのを感じ、一つくしゃみをする。人目を気にしないその音量に暗闇から誰かの迷惑気な視線が向けられた気がして、しかしそれもすぐに無関心を伴い逸らされた。
早く帰ろう。体調管理も練習のうちと口をすっぱくさせていた監督やらコーチやら先輩やらの面々を思い出し自然と早まる足。もくもくと機械的に動かし続けていたそれは、くしゃみから五分も経たないうちに自宅という名のおんぼろアパート前へと俺の身体を導いた。
反射的に鍵を取り出そうとポケットに伸ばした手を止め、代わりにその手を玄関のチャイムへと伸ばす。少し調子はずれな濁った、しかしけたたましい耳障りな音が鳴り響き、数秒としないうちに足音と共に鍵が外された。
それを合図に立てつけの怪しい扉を慎重に開ける。ふわり、とオレンジ色の光が零れ落ちると同時に、ずん、と妙な威圧感と共に目の前に立つ長身の男が目に入った。
自分で呼び出したのだから当たり前だとは言え、帰宅早々目にするのが自分よりも背の高い男というのは、なかなかにげんなりするものがある。別にどこかの先輩が言っていたように「お風呂にする?ご飯にする?それとも以下略」なんて展開を求めている訳ではないが、こう、愛想笑いの一つでもできないものなのだろうか。
そんな感想を抱くと同時に愛想笑いを浮かべる目の前のこいつを思い浮かべようとして、その前に想像の中のそいつは嫌味ったらしい笑顔と共に「それ、君にだけは言われたくないんだけど」などとほざいた。

「おかえり」
「……ただいま」

不愛想に無表情をトッピングした帰宅を歓迎する味気ない言葉に、俺も形ばかり返事をする。そうしてそのまま、奇妙な沈黙が俺達を包んだ。
癖のある短い金髪と、同じ色の瞳が黒縁の眼鏡越しにじっと俺を見つめている。そのまま視線が俺の脳天を貫通するのではと思ってしまう程、じいっと。何かを訴えかけているような強い視線。
しらばっくれる余地などなく、俺にはこいつの言いたいことがわかりすぎる程わかっていた。そしてこいつは、俺がわかっていることをわかっているから何も言わない。ただ口ほどにものを言う瞳を二対、向けるだけ。
がりがりと頭を掻き、はあとため息を一つ落とした。

「……名前は」

その一言だけで十分。あっさりと根負けした俺にかた結びの紐のように引き結ばれていた唇はゆるりと簡単に解ける。そして満足気に自分の腕に抱えていたものを揺らし抱え直し、いつになく柔らかな表情と共に目を細め、そいつは俺の問いにしっかりと用意していただろう解を返す。

「ヒナタ」

オレンジ色のツンツンとした毛並みに、ふにゃふにゃと締まりのない顔をした瞳の大きなその猫は、月島の腕の中でいつかのチームメイトを思わせる声でにゃーんと嬉しそうに鳴いた。

* * *

俺の高校時代のチームメイト、月島蛍が俺の前に現れたのは、今からだいたいひと月ほど前になる。いつも通りの、とある夜。特筆するまでも無く疲れ切った体を引きずりながら辿り着いたアパートの前には、大きな体を折りたたむようにして座り込むその姿があった。
既に二十時を回って暗闇が辺りを包む中、不安定な外灯の光を浴びながら瞳を閉じ、膝に顔を埋めている大男。潔癖で回し飲みすら渋い顔をしていたのに、ぱちりと何かが弾けるような音と共に光に充てられ落ちる虫を気にする様子も無い。
死んだように身じろぎひとつしないその姿に、ぞくりと背筋を寒気が駆け抜けた。

「つっ……」

人違いか、幻か。だって、あいつがここにいるはずがない。
そう思いながらも震える声で名前を呼ぼうとし、しかし俺の口がその名を紡ぐよりも先に、固く閉じられていたと思っていた瞳はいとも容易く開かれた。すぅ、と降り注ぐ光を弾く蜂蜜色の瞳に、安堵とも驚愕とも似つかない何かがこみ上げる。

「……ああ、王様、おかえり」

つい先程まで生気の一つも感じられない、人形のような顔をしていたくせに、顔を起こしながら俺に声をかけるそいつはあまりにも平然としていた。驚愕のあまり固まる俺の方がおかしいとでも言いたげに。動かない俺に苛立ったのか少し顔を顰めると、「帰ってくるの遅いんだけど、早く入れてくれる?それとも自分の部屋への入り方も忘れた?」だなんて上から目線でのたまいやがる。
変わらない不愉快な呼称と相変わらずな嫌味にカチンときて大声を出そうとし、部屋を数個隔てて住む大家がうるさいことを思い出した。もやもやと蟠るムカつきをぐっと飲み下し、代わりに小さな舌打ちに全てを込めポケットから鍵を取り出す。鍵穴にそれを押入れ回す俺の動作をじっと見つめていたそいつは、扉を開けた俺が入れよと促すのも待たずにやる気のない声でおじゃましますと呟くと、するりと部屋の中に身を滑らせた。
これは、さすがにキレてもいいんじゃないか。そう思いながらもここ数年で多少は鍛えられた忍耐力を駆使し鍵を閉めると、すたすたと勝手知ったるとでも言うように歩みを進めるその背中を追う。知り合いからのツテで借りたこのアパートはおんぼろだが無駄に広く、これまたひょろりと無駄に長いこいつを収めても少しも窮屈さは見せなかった。
思わずまじまじと見つめてしまったその背中が昔と比べて酷く薄くなった気がして、先程感じた寒気のような感覚が不意に蘇る。屈強な肉体を持つ男どもに囲まれているからそう感じるだけだと自分に言い聞かせ、リビングの扉を開きソファに腰かけたそいつに続いた。
少し逡巡した末、結局そいつが座る側と反対側に俺も腰を下ろす。話をするなら同じ側に座るのもどうかと思ったが、わざわざこいつのためにソファを譲るのも癪だった。
さて、こんな時間になんの前触れもなくここを訪れた言い訳でも聞くかと、隣の男の口が開かれるのを壁の時計が時を刻む音をBGMにしながら待つものの、予想に反して謝罪の一言すらも聞こえてこない。それどころか、むしろ確率的にはこちらの方が高いと踏んでいた「ちょっと王様、客が来たってのにお茶の一つも出せないの?」なんて嫌味の一つすらも飛んでこない。居心地の悪い沈黙ばかりが静かな部屋に積み重なり、いっそどちらが王様かと思う程の傍若無人な言葉が懐かしくなった。
これは、こちらから口火を切るべきなのだろうか。自他共に認める短気な俺は、時計の針が数回回るか回らないかの内にそわそわちらちらと隣で身じろぎ一つしないそいつの様子を伺う。何かを言うとしても、何を言えばいい。おかしな空気に呑まれるように変な迷走を始めた思考は、なんの前触れもなくその原因である訪問者の手により打ち切られた。
唇が開き、何かを紡ごうと息を吸う音が静かな部屋の中でやけに鮮明に響く。ようやく本題に入るのか、と安心したのも束の間。その口から落とされた言葉は、現状に全く関係の無いものだった。

「王様は、さ」
「お、おう」
「まだバレー、続けてるの?」

どんな言葉を聞かされるのか、と変に身構えていた俺は拍子抜けし、おう、という返事と、当たり前だろとダメ押しを一つ加えその疑問に答えた。
そんな事を聞いてどうしたいのか。「まあ、王様からバレー取ったらなんにも残らないもんねー」なんて嫌味を覚悟しながら続く言葉を待つ。
しかし、それに対する返答は静かなものだった。まるで興味のない話題を相手にするように、「そっか」と、ただその一言。そっちから聞いたくせになんだその反応と、いつもなら思ったはずだった。けれどその言葉が、あまりにも柔らかい、どこか嬉しそうとも感じられる声音を伴ったものだったから。
何も言えず、顔すらも見れず、俺はソファの上で身を固くしたまま動けなくなってしまう。
居心地の悪い沈黙は、容赦なく再び俺達を包み込んだ。
俺の方から言葉を続けるべきなのか。どんな。今はこんな練習をしているとか?次はどこと試合だとか?いや、そもそもこの話題は、こいつの突然の訪問の理由を問いただすよりも先に広げる程のものなのだろうか。
この数年で様々な能力が育ったが、コミュニケーション能力だけは伸びしろ無しかーと笑った、朗らかな先輩のからかうような声を思い出す。助けろと、コミュニケーション能力がカンストした相棒の、能天気な笑顔を思い出す。
なんだこの状況、俺にどうしろと言うのだ。
様子のおかしいこの男にぐるぐると思考を回した末、いっそ窓から放り出せば万事解決じゃないかと投げやりな思考に収まりそうになり、喧嘩は駄目だぞーと凄みのあるにこやかな笑顔を浮かべる主将の姿を思い出し、意を決した。

「おい、お前……」

石膏像のように固まっていた首をぐるりと回し、隣の男を視界に入れる。どうしたんだよ、と口内まで出かていた言葉をそのまま吐き出そうとし、ぴたりと硬直した。
静かだ、とは、思っていた。いやしかし、まさか。
そこにあったのは、ソファの肘掛けに肘をつき、そこに顎を乗せた不安定な姿勢のまま、すうすうと穏やかな寝息をたてる月島の姿だった。

高校時代にほぼ全くと言っていいほど見る事の無かったあまりにも無防備な姿に、起こすに起こせない。戸惑っていると、ぐうと空気を読まない腹の虫が鳴った。
いつもなら帰ってすぐ何かしらを腹に入れている時間にも関わらず、未だその任務が未遂だったことを思い出し、俺はひとまずすやすやと寝こける月島を放置し冷蔵庫に向かう。さすがに今から料理をする気力も体力も無く、適当に冷凍グラタンを取り出すとレンジに放り込んだ。
数分もしないうちに完成音を室内に響かせたそれを取り出し、もそもそと機械的に腹に収めている間も、シャワーを浴びに風呂場に行っている間も、着替えも明日の用意も終わり練習メニューを確認している間も、月島は目を覚まさなかった。
死体と見紛うほどの姿に、けれど先程と異なり寒気を感じないのは、薄く開かれた唇から零れる吐息の音が聞こえるからだろうか。
結局月島が目を覚ましたのは、日付が変わる間際だった。ん……?と不思議そうな声と共に身を起こした月島はどこか幼い動作できょろきょろと辺りを見回した後、眼鏡を外しごしごしと雑な動作で瞳を擦る。腫れるからやめろ、と声をかけると、月島はそれに答える事は無く再び眼鏡をかけて俺を見た。

「……いきなり来て、何勝手に居眠りかましてやがる」
「ああ……ごめん。最近あんまり眠れてなくて」

くあ、と未だ眠たげな欠伸と共に呟かれた言葉はあまりにも素直なもので、さんざん文句を言ってやろうと身構えていた俺は毒気を抜かれてしまった。

「まあ、別にいいけどよ。……それより、お前が俺のとこ……こんなとこまで来るなんて、よっぽどの事があったんだろ。何の用だよ」
「ああ、そのことなんだけど」

しばらく王様のとこ、置いてくれない?
たいした気負いもなく言われ、はあ?と純粋な驚きだけが口から零れた。しかし月島はそれすらも気に留めた様子はなく、そういう訳で、これからよろしく、と俺の了承も拒否も待たずに会話を勝手に打ち切ると、今度は肘掛けに頭を乗せ長い体を体操座りをするように折り畳み、本格的に寝に入った。
呆然とする俺に構わず、月島はまたすやすやと安らかな寝息を立て始める。
これは、これはもう、完全に窓から捨てても許されるレベルだろう。
ふつふつと湧き上がる怒りと共にそう思いながら、しかし同時にその自己中ぶりの変わらなさに、突然の事態についていけていない頭とは裏腹に、どこかほっとしている自分がいたのもまた、確かだった。




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