book1

□今日は時々、血の雨が降るでしょう
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青い天井の海の中、白い雲の魚が倍速で流れていくのを見送る。
背中を付け完全に体重をかけた錆かけのフェンスが、ぎしりと軋んだ音が記憶の中のそれよりも大きく響いた。信頼して俺の身を預けているのだから、それには応えてもらわないと困る。
両腕をフェンスの外側に垂らし、背中をもたれかけさせ空を見上げれば、青と白以外のものは全て視界から排除される。あの頃の俺らにとって一番空に近かったここは、今でも一番広い世界を見せてくれる気がした。何もかもから解き放たれ、自由になったような錯覚を。少しだけ悲しい、高慢な夢を。
うっかりセンチメンタルになってしまいそうになり、それを振り払う様にぐいとフェンスにもたれたままの無理な体勢で伸びをする。ぎしぎしと更に金属格子が軋む音が直接骨に響くが、俺は知ってる、お前は出来る子だ、頑張れ。
聞こえていたら傍らの男が訳分かんねーよ死ね!と盛大な罵倒とツッコミを入れて下さるだろう事が簡単に予想できる言葉を内心で呟き、同時につぅと頬を伝った汗をぐいと力任せに拭った。焼けたコンクリートの匂いが、やけに鼻につく。はぁと漏らした息さえ、自分のものとは思えない程熱い。それはもう死ぬほど、暑い。

「…あーぢー…」
「あっ、おいお前!それ借り物なんだからな!汚すんじゃねーぞ!」
「知るか…。つーか汚されたくないなら何でこんなもん着せたんだよ、意味分からん」
「学校の屋上でスーツって言う、このミスマッチさがイイと思わない?」
「ほんとに意味分からん」

苛立ちを少しでも緩和しようと全力で胸の内を吐きだせば、それに釣られてこちらを振り向いた古市が突然目を三角にして怒り出した。どうやらそれは俺が自分の格好も省みずにフェンスに凭れ掛かっているせいらしいが、俺としては望んで着た訳でも無ければ今すぐにでも脱ぎ捨ててやりたい位だ。
当たり前だろう。このかんかん照りの猛暑日に、黒スーツに身を包む奴の気が知れない。
家に押し掛けるなり「ほら、さっさと着替えろ馬鹿オーガ!」とスーツを投げつけてきた古市の気も、本当に知れない。つーかマジ意味分からん。今なんで俺が石矢魔の屋上にいるのかも分からん。つーか暑い、つーか眠い。
変な迫力に圧されて一応不慣れな一張羅を身に着けてみたものの、長袖長ズボンの時点でこの炎天下の下では完全に変人だ。するりと古市に結ばれたネクタイを緩め、シャツのボタンを二、三個外すと、漸く微かに風が入りほんの少しだけ涼しくなる。本当に気休め程度だが。実際、タンクトップに半ズボンだなんて心底羨ましい恰好のベル坊でさえも、屋上の床に座り込み暑い暑いと繰り返している。涼しげなのは古市くらいのものだが、何だその特殊能力は。古市のくせに生意気だ。

「つーかお前、本当にこんな事してていいのかよ?ずっと忙しい忙しい言ってたのお前だろ?それをなんでまたこんな…」
「まーまー、お前だって長らく喧嘩出来てなくて溜まってただろ?ちょっとした息抜きみたいなもんって事で」
「そりゃあ…まあ。お前に言われたし」
「おーちゃんと守ってんだもんな、偉い偉い」

時折吹く風が古市の重量を感じさせない銀髪を翻す。あそこから冷気が発生しているのではと一瞬本気で考えそうになったが、良く見たら古市も首筋にうっすらと汗を滲ませていた。元から新陳代謝が良くないと言っていたような気がするから、やせ我慢しているだけなのかもしれない。そこまでしてスーツに拘る辺り、本当に馬鹿なのだろう。
そんな事を考えていると、笑いながら俺に近づいてきた古市が律儀によしよしと俺の頭を撫でて褒め始める。幼児のお使いレベルの褒め方に複雑な思いが湧いたものの、久しぶりのその行為にもっと撫でろと言わんばかりに汗ばんだ黒髪を擦り付けた。するとそれを見ていたベル坊が、下から俺も俺もー!と古市のズボンの裾を掴んでせがむ。
なんだ、ベル坊は甘えたさんか?と可笑しそうに笑った古市の手は、あっさりと俺から離れて行き、しかしここで引き留めるのも大人げ無いと言うか親気無いと言うか、しぶしぶ自分を納得させ幸せそうに古市に頭を撫でられるベル坊を眺める。
お母さんか、とツッコメばおそらくこの上なく嫌な顔をされるだろうから、黙って先程の古市の言葉を反芻した。そして最後に喧嘩をしたのは、たぶん石矢魔の卒業式のあの日だったかなと記憶の箪笥を漁ってみる。餞だ何だと言って襲ってきた奴らを、片っ端からめり込ませていたあの日。
いつもと変わらず呆れたように俺の隣でその様子を見ていた古市は、しかしほんの少しだけ寂しそうに笑うと、今と同じようにぽんぽんと俺の頭を撫でて言ったのだ。

『まあ、今日が最後だもんな、存分に暴れて来いよ』
『ん?何がだ?』
『何がって…喧嘩に決まってんだろうが馬鹿オーガ。お前まさか、社会人になっても喧嘩する気か?』
『駄目なのか?』
『おまっ…駄目に決まってんだろうが!せっかく就職決まったのに、クビになるぞ!』

そんな事、考えた事も無かったと唖然とする俺に、古市は呆れ返って言葉も出ないと言う様に盛大に溜息を吐く。そしてひとしきり俺を罵った後、憤懣やる方ないと言った様子で俺に小指を差し出してきたのだ。その意図が分からず首を傾げていると、古市の華奢な手に手首を掴まれ、無理やり小指と小指を絡められる。
予想以上に細く白いその指に、うっかり力を入れたら折れるのではないかと慄いていると、真剣な目をした古市に真っ直ぐ見つめられ、俺は思わずおとなしくその行為を享受したのだ。

『いいか、これからはお前、何があっても絶対に喧嘩するな。売られても買うな、全力で逃げろ。お前が拳を振るうのは、本当にやられそうになった時だけだぞ』
『あ?なんでそんな…』
『いいな!?』
『お…おう』

あまりの剣幕に圧され、その場の流れで頷いただけだったが、その後正式に働くようになってそのありがたみと世間の厳しさを知った。
相変らず、自他共に認める常識の無い俺を、しかも魔王の親なんて非常識なものになり果ててしまったこの俺を、辛うじてまともな世界に留めてくれるのは、いつでもこの腐れ縁の親友で。
流れる雲の様に取り留めのない回想に浸っていると、ひとしきり髪を撫でられて満足した様子のベル坊から古市が離れ立ち上がるのが見えた。
俺だけしか知らない胸の内の思考なのに、何故かやけに気恥ずかしくなり俺はわざと視線を空に逃がしおざなりな口調で話しかける。

「つーか、本当に来るのかよあいつら?こんなとこで待ちぼうけはごめんだぞ」
「ああ、来るさ。絶対に、な」

根拠のない筈の自信に満ちたスーツ姿が板に付いたそのシルエットは、眩すぎる太陽光に照らされ少しだけ霞んでいる。
そのまま光と共に霧散するんじゃ。なんて、馬鹿げた事を思って目をこすると、今度はにやりと楽しげに笑う悪友の姿が視界に映る。ぴしりとスーツを着こなしているくせに、ポケットに両手を突っ込んで、そしてまるで、あの日の様に笑う。

「今日は俺が許可してやる。存分に暴れて来いよ、アバレオーガ」

久しぶりに俺の家の前に立つ幼馴染の姿に、戸惑いと共に胸を躍らせたあの日。
まるで悪戯を企む子供の様な無邪気な顔で、しかし俺は知っている、それは何よりも性質の悪い、智将の顔で。
古市は俺に笑いかけると、あまりに気負いなくあっさりと、開戦を告げたのだ。

『いや…喧嘩っつーか、戦争、かな?』














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