book1

□帰り梅雨
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その言葉の意味を、こんな形で知るとは、思っていなかったけれど。

「お前さあ、最近調子に乗ってんじゃねえの?」
「ほんと、呼び出しても来ないとか、生意気なんだよ」
「しかもあの石矢魔のアバレオーガに付きまとってるらしいじゃん?何それ、虎の威を借る狐にでもなったつもり?」
「ムカつくんだよ、その見た目もすかした態度も」
「なあ、そろそろいいだろ?燃やしちまおうぜ、こんな髪。気持ち悪い」
「男鹿に言ってみろ、ぶっ殺してやるからな」
「…誰に言うって?」

戦場に訪れた束の間の休息と言った様子の晴れ間だった。長らく降り続いていた雨が止み、頭が痛い程に青い空が広がっている。忘れかけていた夏という季節を思い出し、地面から蒸発する水分のせいかやけに蒸し暑い。
そんな肌に纏わりつく重たい空気の中を、泳ぐように抜けた時だった。言われた橋の近くで、五、六人の集団に囲まれた銀色を見つけたのは。
以前見た時よりも、施された処置は多くなっている気がした。そしてその合間から、隠しきれなかった赤い痛々しい皮膚が覗いている。露に濡れた草の上に薄汚れた制服でゴミのように転がり、ただただ体を丸めて雨の様に絶え間なく振る暴力を享受している、古市の姿がそこにあった。
多数対一で、やり返すどころか逃げる事も出来ず情けなく転がる。同じ様を喧嘩相手に見せられたら、つまらねえ奴と一蹴していただろう。しかしそこにいる奴は、どんなに酷く殴られようと、蹴られようと、決して瞳の光を失う事は無かった。固く唇を引き結び、決して声を漏らさず、ただただ理不尽を振りかざす奴らを射殺す様に睨み付ける。
銀で作ったナイフみたいだと、きっとあの視線を真正面から受けて笑っている奴らは馬鹿なんだと、そう思った。だって、ここから見てる俺は、こんなにも痛い。

さくさくと草を踏み分け、俺は静かにゆっくりとそいつらに近づく。はっきりとそいつらの声が聞こえてきて、中の一人がかちりと手にしたライターに禍々しい炎を灯した所で、俺は薄ら笑いを浮かべながら割って入った。
その後は一瞬だった。一斉に目を見開く古市とそいつら。しかしその数秒後には古市以外の全員が地面に這いつくばり、逆にぽかんと口を半開きにしそれを眺めていた古市は俺に強引に腕を引かれ立ち上がる。

「おい、だいじょうぶか…」
「さ、わんな!」

しかしその途中で古市は俺の腕を振り払い、その反動で再びその場に尻餅を着いてしまった。だっせーのと笑ってやろうとしたが、本気の拒絶にひくりと一度喉が震えたきり、何も出てこない。分かってた、嫌われている事くらい。だからこれは別に見返りなんて求めない、独りよがりな行為で、感謝なんてされる訳が無い。そんな事、分かってたのに。

「…悪い」
「なん、でお前が謝んだよ…」
「余計な事、した」
「っ…!」

差出していた手を引っ込め、俺はそれだけ言うとすぐに踵を返そうとする。しかしそれは、驚いたように息を呑んだ古市が、自分から伸ばした手によって制止された。その意図が分からず、俺はされるがままに立ち止まるも、ぎゅっと俺の片腕を握りしめ苦しそうに顔をしかめている古市にツキンと胸が痛んだ。
嫌いなら嫌いと言えばいい。拒絶して、突き放せばいいのに。なんでお前は、そういう事するんだよ。馬鹿みたいに、期待しちまうじゃんか。
そう言ったのか、それとも言っていないのかは分からない。だがあれだけの暴力を振るわれても決して泣かなかった古市の瞳から、ほろりと丸が零れ落ちた。まるで天から落ちる銀の糸のように、澄んだ綺麗な滴。古市自身にとっても予想外の事だったのか、すぐに俺の腕を離すと、ごしごしと自分の瞳を制服の袖で力任せに摩る。
しかしそれでも止まらなかったらしい。古市は両腕で目を隠したまま喉の奥で押し殺した泣き声を漏らす。ツキン、ツキンと胸に蟠る痛みが酷くなった。しかしやっぱり、俺の瞳に熱は灯らない。
やがて、浅い呼吸を繰り返す古市が絞り出す様に言葉を紡ぐ。

「っ…なんで…お前は俺に構うんだよ…」
「なんで、って…」
「誰だよ、お前の事デーモンとか呼んだ奴…とんだ嘘っぱちじゃねえか。こんな甘い奴、デーモンな訳あるかよばかやろう…」

はは、と自嘲気味に笑い、力が抜けたのか古市はその場にへたり込んだ。慌ててその身体を支えてやり、俺はゆっくりと古市と共に腰を下す。間近で見ると殊更酷く見える傷に、病院に連れて行くべきかとも思ったが、行動に移すよりも先に古市は続けた。

「見ただろ?俺、いつもこうやって馬鹿にされてんだ。見た目とか、態度とか。訳わかんねーよ、俺なんも変わらねーのに。一方的に罵られて、殴られて、ほんとなんで俺ばっかりこんな目にあわなくちゃいけねーの?あいつらだって、群れなきゃ俺と大差ないような奴らばっかりなのに、つるんで強くなった気になって、ほんと馬鹿みたい」
「ふるい…」
「知ってるか、男鹿?俺いっつも、お前の事見てたんだぜ」
「え?」

壊れたみたいに抑揚の無い声で喋り続ける古市に急に言い知れぬ不安を覚えて、舌に馴染み焦がれていた名を紡ごうとする。しかし古市はぐいと目元を覆っていた腕を外し、真っ直ぐに、挑みかかる様に俺を見詰めた。
今まで、俺に喧嘩で挑んできた奴らの、誰もした事の無い様な、強い目で。そこにもう、涙は無かった。

「ここの河原に寝そべって本を読むのが俺の趣味だって言ったろ?んで、たまにお前ここに喧嘩しにくるじゃん?だからこっそり陰からそれを見ては、ずっとすげーなーって思ってた。あいつらはあんな大人数で俺みたいの一人なのに、お前はたった一人であんな大人数と戦って、打ち負かしちまうんだもんな」
「だから、俺の事知ってたのか…」
「引いただろ?まるで初めてみたいな顔して、しれっとお前に近づいたの。なんでだと思う?」
「なんで、って…偶然じゃ」
「確かにお前があそこに雨宿りに来たのは偶然。でも俺は、ずっとお前に話しかける機会を窺ってたの」

何かを吹っ切ったように、古市はぺらぺらと口を動かしている。与えられる与り知らぬ情報にただただ混乱するばかりの俺は、半ば単語で構成されたような言葉を零す事しか出来ない。
するとはは、と古市が自嘲気味に笑った。また泣きそうになり、古市は俺をじっと見つめる。鏡の様に俺を映す瞳に、吸い込まれそうだと思った。

「お前に殴られて、そんで圧倒的な力に打ちのめされたら、全部諦められるような気がしてたんだ。ああ、俺は弱いんだから、しょうがないって。分かるか、男鹿?俺はお前を利用しようと思って近づいたんだ」
「……」

言葉を失う俺に、古市はふわりと柔らかく微笑む。その笑みは何よりもその言葉に嘘偽りが無い事を証明していて、同時にまた、他の感情の存在も仄めかす。少し汚れた銀髪は、それでも水滴を宿し光に煌めいていた。
俺が無言のままでいると、古市はふいとそっぽを向き、次はどこか拗ねた様な口調になる。唇も少し尖っているようで、でも声の芯が震えている事から、泣きそうなんだなと思った。

「なのに、お前すっげー良い奴なんだもん。人を人とも思わねークソヤローって聞いたから、舐めた口聞いたら一発KOかと思ってたのに、普通だし。それどころか話してて楽しいし、趣味も結構合うし、見かけによらず優しいし」
「…んな事言う奴、お前が初めてだぞ」
「そうなの?見る目ないなーみんな」

はは、と笑い、また泣きそうな顔をした。俺も泣きたいのか笑いたいのか怒りたいのか全然分からないから、お互い様だなと思った。

「だからさ、俺の勝手な都合にお前を巻き込んじゃ、いけないと思ったんだ」
「…喧嘩するなら、任せろって言っただろ」
「だから俺こそ言っただろ、喧嘩じゃねーって。まあでも、今日はほんとは喧嘩するつもりだったんだけどな。あーあ、俺ってやっぱりよえーの」
「んなこと、ねえよ」
「いーや、あるね。そんでお前、やっぱつえーわ。すかっとした。ありがとな」

どこか諦めたように、でもすっきりしたように笑う古市に、不安が募った。こう、とそれに形を持たせることは言葉不足の俺には出来ないけれど、このまま古市が空気の中に溶けて消えていってしまうような、そんな気がした。いや、いつだってそうだった。古市はどこか、陽炎の中にある街のような、危うさや儚さを漂わせている。
だから、怖かった。この温もりが、手が、あまりにもあっさりと離れてしまう事を知っていたから。下手をしたら、加減を知らないこの腕が、握りつぶしてしまうと分かっていたから。だからそれくらいなら、早く俺を嫌って、他の奴らみたいに離れて行って欲しいと、そう思っていた。
でも、嫌われていたのでないなら…こんな俺に、良い奴だと言ってくれるような奴なら、話は別だ。

「いや、お前は強い」
「冗談よせって…」
「俺は、お前みたいな強い目をした奴初めて見た。俺なんかに物怖じせず近づいてくる奴に初めて会った。あんなに一方的にやられても、泣き言一つ言わない奴がいるなんて、知らなかった。ほんとに、ほんとにすげー奴だと思ったんだ」

古市の手を一度払い、そしてすぐに掴み直す。俺の両手で、古市の細い両手首を。力加減をしつつ、でも絶対に放してしまわないように。
真っ直ぐに古市の瞳を見詰めた。困惑に震える瞳の中に、確かに光を見つける。それが少しずつ、俺が拙い言葉をつっかえつっかえに伝える度に、大きくなっていくものだから、苦手分野にも拘らず柄にもなく懸命に伝えた。そして最後まで言い切るとようやく、古市が顔をくしゃくしゃにして笑う。涙は零れていたけど、これはやっぱり笑っていた。

「なあ、男鹿。男鹿、俺の事、許してくれる?」
「当たり前だろ。元から俺は、何も怒ってねえ」
「そっか…じゃあ、さ」
「ん?」

古市が顔を上げる。俺の額を撫でた銀色が、きらきらと光っていた。こういうのが神様に祝福された色って言うんだろうなと思い、それを見つめる。いや、古市の髪も、肌も、瞳も、全部が輝いていて、良く見るとその後ろには七色の虹がかかっていた。今力を緩めたら、古市がそれを渡りどこか遠くに行ってしまいそうで怖くなり、ぎゅっと掴む手に力を入れる。
すると、それに合わせる様に、古市がこつんと俺の額に自分の額を合わせて、微笑んだ。

「俺と、友達になってください」

花が開いた様な笑みは、最後の雨を落とすと共に梅雨の終わりを告げていった。



* * *



「…なあ、お前俺の傘二本持ってるよな?」
「忘れた」
「いやいやいや、今お前がその手に持ってるのは何?」
「あーあれだ、棒だ。打撲攻撃専用棒だ」
「人の傘勝手に凶器扱いするなアホ!んで、狭いんだけど」
「あー」
「はあ…何が悲しくて男と相合傘しなくちゃなんねーんだよ」
「ぼろぼろの古市君の為に俺が傘を持ってやってんだろーが。ありがたく思え」
「傘位持てるけどね!?あといい加減俺の傘返せ!」
「おう、お前んちまで言ったら一本は返してやる」
「は?もう一本は?」
「俺が濡れるだろ。次会った時にでも返す」
「いらねーだろ」
「お前…俺に雨に濡れて帰れと…」
「だってお前、うちで雨がやむまで雨宿りしてくだろ?」
「…いいのか」
「ああ」









───end───

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