book1

□帰り梅雨
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「なー男鹿」
「んあ?」

それは記憶の片隅に、そっと掬い取り澄んだ水晶の湖に浮かべた一輪の水仙みたいなものだった。ゆらゆらと漂い掴み所が無く、足を動かすとすいと波紋に揺れる。
ほいと軽く手渡されたまいう棒に齧りつきながら、しとしとと注ぐ水に目を眇める。その日は普段よりも尚更車軸を流したような雨で、先程まで来る途中に見た紫陽花の上のカタツムリがどうのとか言う古市の言葉をぼーっと思い出していた。そんなもの、気にしてみた事も無かったから、呆れると同時にあまりにも意外だったのだ。
さく、と軽い音と共にコンポタ味のまいう棒を齧り、もごもごと口を動かしながら古市が続ける。

「喧嘩、好きか?」

ぼりぼりと口に含んで少し湿った菓子を飲み込み、俺は思わず古市をまじまじと見つめてしまった。しかし古市自身は少しも気にした様子は無く、さくさくと俺とは異なり淑やかに菓子を胃に収めていく。質問の意図が掴めず、俺は軽く頬を掻いてからこくりと頷いた。

「おー…好きだな。すかっとするし」
「ふーん。なあ、相手を思いっきりぶっとばした後ってどんな気分?」

喧嘩なんかとは無縁そうな顔をしているものだから、やけに喰いつかれて口ごもった。喧嘩相手を完膚なきまでに叩きのめして、土下座させるのが趣味ですなんていい笑顔で言ったら、それこそ引かれる。いやこいつの場合キラキラと顔を輝かせて、すげー!なんて言いかねない雰囲気もあり、それはそれで困るのだが。
だからどうにか適当に誤魔化そうとしているのに、言い訳を捻りだす事も出来ず俺は視線を彷徨わせた。しかし自分の脳のキャパシティは自分が一番よく分かっている。これ以上の酷使は危険だと判断し、俺は素直に質問には質問で返す事にした。

「なんでそんな事聞くんだよ?古市も喧嘩したいのか?」
「いや、別に率先してしたい訳じゃ無いけど、なんとなく」

いつもなら「いや、誤魔化すな。それより俺の質問に答えろよ」とツッコミが入りそうなものだったが、古市は困った様に笑うと言葉を濁す。拍子抜けし、そのまま先程の喰いつきが嘘だったようにあっさりと黙り込む古市に、調子が狂った。
ちらりと横目で静かに雨を眺める古市の身体を視界に入れると、虫も殺せない様な細い腕が映る。猫も蹴とばせない様な足が映る。他人を本気で睨み付け罵る事も出来無そうな眼や唇が映る。そしてなんとなく、嫌だと思った。何が、と考えてみて、ああと自分の中にすとんと解が落ちる。

「お前はすんなよ、喧嘩」
「は?」

わざわざ蒸し返してくるとは思っていなかったのだろう。古市がきょとんとした顔で首を傾げる。全体的に丸で構成された顔が、更に丸みを増した。

「お前が倒したい奴がいるなら俺が倒してやるし、お前に喧嘩を売ってくる奴がいたら俺が全部引き受けてやる。お前になんかしてくる奴らはみんな俺がぶん殴って土下座させてやる。だから、お前は喧嘩するなよ」

分かったな、と念を押す様に言葉を閉めると、ぱちりと古市が大きくまばたきをした。長い睫毛と大きな瞳が相まって、本当に一挙一動に鮮明な音が付随しているような気すらする。あどけない動作にうっかり可愛いなどと思いそうになり、しかしそれは振り払うまでも無く吹き飛ばされた。
突然、古市が爆笑し始めたのだ。両手で腹を抱え、思い切り肩を揺らし、今にもその場に膝を付き転がり始めるのではないかと思ってしまう程。そのあまりの笑いっぷりに初めはただただ驚き、次第に自分の言った事が上昇する血液と共に脳に導かれ、かあっと顔が熱くなる。

「っ、なんでもねえ!わすれ…」
「男鹿、お前すっげーかっこいいな」

予想外の称賛にぽかんと口を開けていると、未だにひくひくと体を揺らす古市だがようやく落ち着いてきたらしい。にこりと笑い、目元に浮かんだ涙を拭う。そして言ったのだ、雨雲の更に奥。その内に潜む太陽を見透かし、焦がれる様な目をしながら。

「俺も、お前みたいになりたかったな」

初めてだった。疎まれ恐れられるだけだった筈の俺に、そんな事を言った奴は。






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