book1

□暴れ梅雨
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不良だって普通の人間だ、冬は活動が鈍くなるし、夏は威勢よく動き回る。そうすると当然、喧嘩の数も増えた。
だから尚更、せっかく暑くなり始めた頃に、文字通り水を差す様に訪れる梅雨が嫌いだった。
雨が嫌いだった。でも好きになった。そしてまた、嫌いになった。
余計な期待をするその天気が、嫌いになった。

「…今日も来ねえのかよ」

赤茶けたトタン屋根の下。一人ぽつんと立ち尽くしていた俺は、誰もいないのを良い事に忌々しさを隠さず吐き捨てた。以前会ったあの日から数日経った。梅雨も完全に本番に突入したのか、毎日毎日雨が降る嫌な天気が続いている。しかしどの日も、俺があの銀髪を目にする事は無かった。
別に元からただの行きずりの関係で、記憶に残らないくらいの気楽な会話しかした事が無くて、こうして俺がここに毎日未練がましく通っているのもただ借りた傘を返さないままなのは寝覚めが悪いから、ただそれだけ。
決して、あいつといるのが楽しかったからとか、友達になれるかもしれないとか、そんな事を思った訳では無い。違う、絶対に断じて違う。だって元から一人だったのだから。他人は腕っぷしで叩きのめし屈服させるもの、恐れや怯えを向けられるもの。元からつまらない期待など抱く訳も無い。
陰気な雨のメロディーに乗せた荒んだ歌詞は、ぐるぐると俺の周りで廻っていた。

「…帰るか」

あいつがいないのなら、別にここにいる意味も無い。濡れて帰るなんて、傘を持たない俺には当たり前の事、自然の摂理だ。その度に姉貴に怒られるが、知った事じゃない。いつも通りの知らんふり。
雨に濡れながら、本当は自分が一番理解していた。惨めに濡れる自分の中に降り積もる、寂しさと落胆、後悔と言う感情を。
あんな事を言わなければ良かったと、今になって幾度も思う。お前に会えるからなんて、きっと引かれた。冗談だと笑い飛ばす筈だった、洒落にならない声音を隠せもしない馬鹿な自分を殴り飛ばしたい。
そうすれば、名前のつかない関係のままでもせめて、この雨が止むまでは肩を並べられたかもしれないのに。
やっちまったと、一人繰り返す反省会なんて、似合わないにも程がある。そんな事は百も承知だが、もう少しこの不快な気持ちに浸っていたかった。せめてこの雨が止むまでは。
この季節が過ぎ去ったら、元の俺に戻る。人を人とも思わない、喧嘩が大好きで不良どもを並べて土下座をさせるのが大好きなクソヤローに。誰とも肩を並べず、孤高に笑う悪魔に。
だから、せめて今だけは。友達が欲しかったなんて雨に紛れて泣いていた、幼い時の女々しい自分の欠片と手を繋ぎ立ち尽くす事を、許して欲しい。誰に願うでも無く、そう言って嗤う。
真っ直ぐ家に帰る気になんてなれず、もう少し濡れていたいなんて考えて、あわよくば誰でもいいから喧嘩したいと思いながら、当ても無く足を進める。時折この数日ですっかり肥大成長を遂げた水溜まりを蹴とばしたが、ちょっとやそっと濡れたところで何も変わらない。虚しさは少しだけ、助長されるけれど。
いつの間にか人ごみに紛れていて、行き交う人の波の中例外なく傘を持つ人々にぶつかる度に、いつもなら俺を恐れて避ける筈の人々が色とりどりの屋根に閉ざされた世界の中流れていく。肩で屋根を弾く度に、濡れるのはこちらの方だった。
いっそ全部ぶっとばしてしまえたら、このもやもやもすっきりするだろうか。そう自嘲気味に考えた時だった。視界の端にきらりと銀色が光り、一瞬跳ねた肩にどうせ傘の骨だと言い聞かせる。しかしそんな俺を嘲笑う様に、柔らかい銀色がもう一度光った。今度は何も考えずに走り出す。何を言うとか、どうするとか、そんな事は何も考えずに。腹が減ったら泣く赤ん坊のように、単純な、ある面いつも通りの思考で、俺はその銀髪の持ち主の腕を掴んでいた。
ほんの数日前、当たり前の様に触れていた温度に無意味に安堵する。しかしくるりと驚いたように銀色を翻したそいつの顔を見て、己の顔が歪むのを自分でもはっきりと感じた。

「お、が…?」
「古市、お前、それどうした」

折り畳みでは無い、まともな傘に守られた体は、水による浸食を免れていた。しかし丸く見開き俺を見つめていた瞳がすぐに逸らされ、しまった、とでも言いたげに口元を歪めるその表情が、如実に今のその状態を俺に見られたくなかったと言う事を物語っている。
古市の、女みたいに白くて綺麗な頬には、その全面を覆う様にガーゼが張られていた。額には絆創膏、片目には眼帯。良く見ると、掴んだ腕の先、制服の端からは指先と手首にぐるぐると包帯が巻かれていて、俺に掴まれたことにより大仰に顔を顰めている。
明らかに、満身創痍。

「古市」
「…なんだよ」
「喧嘩か」
「そんなんじゃない」
「誰にやられた」
「お前には関係ない」

問答を続ける内に、気まずげな表情は徐々に消え、そこに苛立ちと不貞腐れた様な色が残る。しかしつい先程までなら気にして慄いた筈のその表情も、降り注ぐ雨も、今の俺の頭を冷やしはしなかった。

「…んだと」
「だって本当に関係ないだろ。あのアバレオーガが正義の味方気取りかよ、うぜえ」
「ちげーよ。何でもいいから誰にやられたか言えってんだ」
「しつこいんだよ!今急いでるんだ、離せ!」

初めて聞く本気で苛立った声と、容赦なく振り払われた腕にすがる事が出来ず、その場に立ち尽くす。肩で息をした古市が、真っ直ぐに俺を睨み付けた。そこには確かに、感情が灯っている。濃く、熱い、憎悪。

「…友達面すんな」

全ての感情を凝縮したように、押さえ込まれて放たれた一言が、今まで喰らったどんな攻撃よりも深く深く突き刺さり、痛かった。しかしそれよりも、言われた俺よりも言った古市があまりにも痛そうな顔をするものだから、一気に頭の中がぐちゃぐちゃになる。
なんでお前、そんな顔してんの。俺の事嫌いだから来なくなったんだろ、なあ。ならなんで、そんな痛そうな顔してんだよ。別に俺、慣れてるし、誰かに嫌われるのも、拒絶されるのも。分かったよ、お前がそう言うならもう近づかないから、だから。
だから、お前がそんな顔するなよ。笑ってろよ。馬鹿みたいにさ。

「さっさと帰れ。で、もう俺に関わるな」

何一つ言葉に出来ないまま、立ち尽くす俺に、古市がどこか痛むのか泣きそうな顔をして、そして完全な拒絶の言葉を吐きその場を立ち去る。
呆然とそれを見送った俺は初めて、本気で人目をはばからず、声を上げて泣きたくなった。
なあ、なんで。俺にそんな事言って手を振り払っておきながら、哀しそうな顔するんだよ。
なあ、今俺の手にある、この傘は何なんだよ。俺、馬鹿だから分かんねえって、教えろよ古市。

「…傘、二本になっちまったな」

はは、と笑って、いっそ泣いてしまおうかとも思ったけど、心が凍り付いたように熱は生まれなかった。



* * *



「最近調子載ってるんだよな、うぜえ」

目を覚ましたのは、軽い口調で落とされた言葉の中に、微かに鋭い棘を捕えたからだった。いつも通り、学校に着いてすぐさま机に突っ伏し、俺は惰眠を貪る。それは本来昼と就業のチャイムが鳴るまでは途切れる事の無い筈のものだった。
しかし、ここの所ずっと眠りが浅かったのと耳障りな雨の音が手伝い、近くで何やらだべっていたらしい声の高低に、ふと耳を澄ます。ぼりぼりと頭を掻き、ふあと一つ欠伸を落とし、雨音よりも微かに存在感がある程度の音を、聞くともなしに耳に入れた。

「あ?どこの奴らだよ」
「いや、どこの奴らって事もねぇんだけどよ。あるじゃんあの、おぼっちゃん学校?」
「ああ、聖石矢魔の事?」

ぴくりと肩が跳ねたのは、聞き覚えのある学校名が飛び出したからだった。しかし出来の悪い寝ぼけた頭はその理由を探りだせず、俺は脳内検索を続けながらもそっと同じ調子でしゃべり続ける不良共の声に耳を澄ます。

「そう、そいつら」
「あいつらがどうかしたのかよ?因縁でもつけられたか?」
「まさか、あいつらにそんな度胸ある訳ねーだろ。ただなんか、この前河原の辺りでそいつらが五、六人位で一人をボコってんの見てさ。弱いくせにたむろっていきがってんじゃねーってんだよな」
「うわ、大人しそうな顔して案外えげつねーことすんのな」

ぎゃはは、と聞き手側に回っていた男がたいして気にした様子も無く下卑た笑い声を上げる。しかし相変わらず話し手側の男はどこか不満気な表情を浮かべていて、窓の外をちらりと見てからぽつりと零した。

「…んで、気になったのはそのボコられてた奴なんだけどさ」
「ん?」
「なんか変な奴だったんだよな。いくらボコられても逃げたり抵抗したりしようとしねえし。なのにずっとそいつらの事殺しそうな目で睨んでてさ。なんつーか、ボコってた奴らよりもそいつの方が聖石矢魔っぽくなかったな。むしろどっちかってっと俺ら側」
「ふうん。ま、やり返す事も出来ねー位よわよわのおぼっちゃんなんだろうけどな。あいつらみんな貧弱そうだし」
「ああ、貧弱そうは貧弱そうだったな、そいつらの中でも群を抜いて。なんか女みたいな顔してて、なのに妙に気合入った銀髪で…」

ガタンとどこかで椅子が勢いよく倒れた音がして、うるせーな、喧嘩なら余所でしろよ。今俺は機嫌が悪いんだ、ぶん殴るぞと思って。
よく見たら倒れていたのは、俺が先程まで座っていた椅子だった。
あれ、と思って。しかし思考が追いつくよりも先に手と足が勝手に事を進める。足が床を蹴り先程まで話し手側だった男の真正面に俺の身体を運び、腕がそいつの胸ぐらを容赦なく締め上げていた。
突然の事に怯んだ男の口からひぃと情けない悲鳴が漏れるのに、うるせぇと一つ舌打ちをする。そしてそいつを黙らせるようにもう一度ぎりと締め上げ、睨み付けた。

「今、なんて言った?」
「な、何も…っ」
「聖石矢魔の銀髪がどうのって話だよ、詳しく聞かせろ」

自分でも驚くくらいに低い声が出て、未だに思考回路が追いついていないのか、それをどこか冷静に観察している自分がいる気がする。
俺の人生の中で、あんな銀髪に出会ったのは初めてだった。染めたものでないと一目で分かる、光源として光を内包する月の雫に浸したみたいな銀色。世界で一番綺麗な色だと、素直にそう思ったあの色。

「し、知らねえよ!ただ最近、よくそいつが同じ聖石矢魔の奴らにボコられてるのを見るってだけで…」
「どこだ」
「え…」
「そいつがボコられてた場所がどこかって聞いてんだよ!さっさと教えやがれ!」

ひっとそいつが怯えたように息を呑む音が聞こえる。カチカチと歯を鳴らし、震える唇をどうにかして動かそうとしているのを見て更に苛立つ。いや、苛立ちでは無い、この燻る言い知れない感情は。

「ちっ…近くの河原の…橋のとこ…!!」

紛れも無く、不安と焦燥だった。








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