book1

□梅雨晴れ
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確かそれは、俺が小学生くらいの頃の話だったと思う。机とおでこをごっつんこするのがすっかり習慣化していた俺は、その日の国語の授業も例に漏れず先公の生ぬるい声を子守唄にうつらうつらとまどろんでいた。
しかし何の偶然か、ふと隣の席の奴がペンケースを落とした音にびくりと肩を揺らし目を開けて、ふあああと盛大に欠伸をした時に語られていた端話が、妙に印象的だったのを、今でも覚えている。
面白さなんて欠片も分からないけれど、俺が喧嘩を無条件で好きなように、国語が好きで好きで堪らないとでも体現するかのように楽しそうに、テストの点の足しにはならない無駄話。

「『夜目、遠目、笠の中』ということわざがあるのを、皆さんはご存じですか?さて、これはいったいどういう意味でしょう。…そうです、これは女の人が美しく見える条件を言い表したものなのです」

嫁?米?肩の垢?寝ぼけ眼でぼんやりと耳に届いた言葉を脳内変換し、なんだそりゃ、意味分からんと結論付け早々に考える事を放棄する。それもいつもの事で、それだけなら一割の十分の一も記憶に残らない日々の授業と何ら変わりは無い。
でも。

「どれもこれも、はっきりと見えない、朧気な状態の事なんですよ」

よく見えない方が、遠くにある方が、綺麗なものは綺麗に見えるんですね。
小さく苦笑を洩らしながら、いくつも皺が刻まれた自分の頬を撫で、ふうと少しだけ疲れたような溜息を零したいつも明るいと評判の先公の顔とその言葉だけは、奇妙なセピア色の光景として、訳も分からず保管され続けている。



* * *



「ったく、手間かけさせるんじゃねーよ」

拳を目の前にいた隙だらけの男の顎に叩きこめば、それだけであっさりと勝負は決した。当然、俺の完全勝利だ。
辺りに死屍累々と散らばる不良共を見回し、一丁上がりと手に附着した砂埃を払い、先程からしとしとと降り注いでいた雨の為にべったりと額に貼りついた自分の黒髪を払う。とうとう梅雨も本格的に始まり、ここ連日降っていた雨が、今日は珍しく止んでいた。久方ぶりの晴天と鮮やかな太陽の色に、普段ならこれでようやく姉貴に服を汚すなと叱られる心配もあまりせず、喧嘩に明け暮れる事が出来ると胸を躍らせるものだが、今年は落胆の方が大きかった。
何故か、と問われれば理由は一つ。雨の日には必ず、あの赤茶けたトタン屋根の下で本を手に佇む少年にある。
古市貴之、ようやく名前を知る事が出来たあの日から連日、まるで俺の胸の内を代弁するかの様に、雨は途切れることなくこの街に降り注いだ。雨の日には必ず、あいつがあそこにいる。
どうも話を聞くに、天気のいい日は近くの河原で寝そべりながらゆっくり読書に勤しむらしいが、生憎の天気の為そうもいかない。だからと言って学校から家に直行もつまらないし、丁度今探している本があるとかで、こうも毎日この古本屋に入り浸っているのだそうだ。
正直、俺としては理由なんかどうでもよかった。大事なのは、古市がここにいるのかいないのか、ただそれだけ。
それにもしも、もしも本当に、ほんの少しでも古市が俺の事を待ってくれているのではないかと思うと、嬉しかった。
だから今日もいつも通り、放課後からようやく降り始めた雨に嬉々として古市の元に向かおうとしていたと言うのに。

「あーあ、またあいつに怒られる」

途中でこいつらに喧嘩を吹っ掛けられ、無視しようとしたら問答無用で殴りかかってきたので仕方なく相手をし、今に至る。お前らじゃ相手にならないから止めておけと普段の俺なら絶対に口にしない様な事を心優しくも告げてやっていると言うのに、こいつらは聞きもしない。仕方なく心優しい俺様は体に直接教え込んでやる事にした。
通常運転でコテンパンに叩きのめし、しかし俺は急いでいるから今日は土下座は勘弁してやろう、ああ本当に、俺ってなんていい奴!と一人悦に入る。ぶっちゃけ何でもいいからさっさとここからおさらばして古市の元に向かいたいだけなのだが。
相変わらず傘を携帯しない俺が制服を濡らして赴くと、古市はそろそろ学習しろよなばーかと呆れたように言いながら、でもなんだかんだタオルを貸してくれて、そして俺はそれをまたその次の雨の日に返す。そんな事を繰り返していた。
本当は、その俺に向けられる困ったような、でもどこか優しい笑顔が好きだから傘を持たないのだけど。雨宿りをする口実も無くなるし、とは言わない。別に言う必要も無い。俺はびしょ濡れであの屋根の下に駆け込み、あいつがタオルを差し出す、それでいいのだ。
感じた事の無い満たされた気持ちに思わず笑みを洩らし、だから気付かなかった。

「っ、このやろう!!」
「!?」

先程まで全員地面に這いつくばっていたと思ったのに、その内の一人がいつの間にか起き上がり、鉄パイプを思い切り振り上げ俺に襲いかかってきた事に。
日ごろ培った反射神経が功を奏し、なんとかそれを致命傷にならない程度には避けるも、完全に油断しきっていた為、それはこめかみのあたりを掠った。もちろん黙ってやられているようなタマでは無いので、速攻で片足を軸に回し蹴りを決め、今度こそ息の根を止める勢いで地面に叩きつける。

「はっ、やるなら最後まで気配消せっつーの、馬鹿が」

まあ、それでもお前程度の攻撃でやられる俺様じゃねーけどな。そう呟き、しかし聞いている相手が誰もいない事に気づき、少しだけ虚しくなった。あるのは死体の山ばかり、いつもならここから水でもぶっかけてやれ土下座だやれ全裸で川に飛び込めだ拳を交え友情を育んだ皆様との交流会としゃれこむ所だが、今となってはそれにたいした魅力も感じない。
それより古市だ。雨が止んだら、帰ってしまうかもしれない。
いつでも出来る交流会なんかより、そっちの方が数万倍大事だ。そう思いながら俺は雨の中を走りだす。相変わらずの生ぬるい温度が頬を伝い、ぐずぐずに制服を濡らし気持ちが悪い。こんなに濡れたのは最初の時以来かと忌々しく思いながら俺は今日も、見慣れた銀色を探し朧の雨のカーテンの中を走る。気付けば、赤茶色よりも銀色を探して走るようになっていた。くすんだ色よりも、鮮やかに光を反射するあの色の方が、簡単に見つかる。
ぱしゃ、とスラックスに泥水が跳ねるのも意に介さず走れば、すぐに目印となる輝きが見つかった。緩む頬を必死に引きしめ、幼い子供が泣いて自己主張をするようにわざと荒々しい足音で古市の気を引くと、文庫本に吸い寄せられていた瞳はすぐに上げられ、俺を映す。その瞬間が堪らなく好きで、俺はこちらを見て楽しそうに笑う古市に片手を上げた。
また来たな、お前も大概暇人だなと憎まれ口を叩くのか、お前そろそろ風邪引いても知らねーぞと呆れたように説教をされるのか、それとも聞いてくれよ、今日学校でさーとどうでもいい四方山話が始まるのか。どれでもいい、古市となら、どれでも楽しい。
そう思いながらまた一歩足を踏み出し、次の瞬間古市の顔色が変わった。
予想していたどれでも無い、ただでさえ白い肌をすっと青ざめさせ、そして焦ったような怒ったような、そんな声を出す。

「お、おい男鹿!お前それどうしたんだよ!?」
「それって、どれだ?」
「とぼけてんのか!?それともマジで言ってんのか!?お前その血どうしたんだよ!」

血?と訳の分からない言葉に首を傾げつつ、今にもトタン屋根の下から雨の中に飛び出しそうになっている古市を制するように足音を響かせながら到着し、ぐいと頬の雨とも汗とも判別しにくい液体を拭う。まあどちらも無色透明な事に変わりは無いんだし、ノープロブレムノープロブレム、と、思って。

「あ?」
「おまっ、本当に気づいてなかったのか!頭からだらだら血流しやがって、何事かと思ったぞ俺は!」

視界に飛び込んできたのは、頬を拭った学ランと手の甲にべったりと付着した赤い液体だった。ぷん、と雨の匂い以外にも甘い様な酸っぱい様な鉄くさい様な奇妙な匂いが鼻をくすぐり、そこでようやくぐらりと視界が揺れるのを感じ思わずその場にうずくまる。

「お、おい!大丈夫か男鹿!?」
「あー…さっきの奴か、ちくしょー…」

掠ったと思っていた鉄パイプは、思っていたよりもしっかりヒットしていたらしい。心配そうな声を頭上から落としながら俺の正面に同じようにしゃがみ込む声を聞き、さっさととどめを刺しておくんだったと後悔する。あんな奴の一撃を受けるなんて、男鹿辰巳、一生の不覚、と脳内武士が切腹を行った所で、俺は顔を上げふんと鼻を鳴らした。

「ぜんっぜんよゆー」
「馬鹿言うな!こんなに血流しといて大丈夫な訳あるか!」
「男鹿辰巳様なめんなよ、こんなのなめときゃ治るぜ!」
「どっちだよ。あーもう、とりあえずいいからじっとしてろ」
「む?」

さっきまで笑っていた古市が、青くなったり赤くなったり、忙しなく百面相する様を変な奴だと思いながら眺めていると、ごそごそといつもの様に鞄を漁り始める。またタオルだろうか、だがこの状況であの白いタオルを借りるのはさすがに申し訳ない。血は取れにくいのだと、以前おふくろが愚痴っていたのを聞いた覚えがある。
断ろう、と、そう思うと同時にそこから姿を見せたのは、全く別のものだった。

「よし男鹿、じっとしてろよ」
「…」
「どうしたんだよ、ほら、傷見せろって」
「…付かぬ事をお聞きしますが、古市君はド○えもんなのかな?」
「お前やっぱ頭打ってアホになったか」
「なんだとてめえ!」
「あ、悪い。元からアホだったな」
「殺す」
「はいはい、とりあえず横向けって」

消毒液とガーゼ、絆創膏、テープ、包帯。某未来の世界のネコ型ロボットのポケットばりに古市の鞄からは様々なものが飛び出してくる。なんで一般人がそんなもん常備してるんだ。ぽかんと間抜けに口を開けながらそんな様子を見守っていると、今度は古市の手が俺の頭に近づいてきた。おいおい、俺の頭からは何も出てこないぞ、いや、空っぽって意味じゃ無くてだな!そう言おうとしたのに、そっと俺の頬に添えられた体温に、喉をきゅっと細い糸に絡め取られたように何も言えなくなってしまった。

「んー…髪で良く見えないけど、そんなに酷くない、よな?」

俺に問うのではなく、ただの独り言として呟かれた言葉。髪を梳くように触れる少しだけ汗ばんだ指先が頬を掠める度に、どくん、どくんと心臓が壊れたように大きな音を立て軋む。なんだこれ、と思っている内に、古市は足元に商品のように並べた消毒液を見もしないで手にすると、ガーゼに染み込ませ、俺の頭に当てた。

「いっ、てえ!?」
「おーじっとしてろよ。ばい菌でも入ったら事だからな」
「ちょっ、お前何して…」
「何って、治療だけど?」

何言ってんの、お前、とまるで常識を諭すような顔で言われてしまえば、あとはその流れる様な手つきに身を任せるしかない。てきぱきと手馴れた動作で、古市は俺の頭に刻まれているらしい傷を消毒し、ガーゼを当て、上からぐるぐると包帯を巻き付ける。不覚にも感心してしまったが、ここまで大袈裟な手当てが必要な怪我だったとは思えず、こんな姿を他の不良どもに見られたら舐められると不満に思った。
しかし汚れ一つ無いお綺麗な制服で地べたに座り込み、熱心に治療を続ける古市に文句など言える筈も無く、少しのくすぐったさがチリチリと胸の辺りと頬に燻るのを感じながらも、俺も同じように地面に胡坐をかきじっと耐える。
しばらくすると、自分の処置に満足したらしい古市が真剣そのものだった表情をふわりと崩し、これでよしと言いながらぺちんと軽く包帯が巻かれた俺の額を叩いた。軽い動作だったが、目の端を過る手の勢いに反射的にいてっ、と呟く。すると何を勘違いしたか、古市は軽く笑うと、これに懲りたらあんまり無理するなよ、と言った。喧嘩するなよ、でない事が、訳も無く嬉しい。自分を、肯定されているような気がして。










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