book1

□梅雨入り
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例年より少しばかり早く訪れた梅雨は、まるで何かに急かされているように、その翌日の夕方にはまた地上に雨粒を落とした。濡れ鼠で家に帰り、散々折り畳み傘を常備するように姉貴に叱られたと言うのに、また懲りもせず空っぽの鞄を抱えて家を出たと知れたら、これは今度こそ五体満足では済まないかもしれない。若干本気でそんな事を考えながら、しかしあまり反省もせずまだ小降りの鼠色の空の下を駆ける。その足音が、雨粒の様に弾んで聞こえるのは、おそらく気のせいだろう。
しかし全力で動かす足は勝手に先日と同じルートを辿る。見覚えのある赤茶けたトタン屋根が視界に入り、そして今日はそのすぐ下に、ふわりと揺れる銀色を見つけた。
本当に、いた。根拠の無い確信の的中に、胸の底が歓喜に震え口元が綻ぶ。迷いと不安を秘めていた足は、少しのぶれもなく目指す色に向かい直進した。
押し殺すと言う事を考えた事の無い無遠慮な足音に、そいつも気付いたのだろう。手にしていた古めかしい緑色の文庫本からおもむろに顔を上げ、そしてぱっと顔を輝かせる。ビー玉を水の中に散らしたみたいな光が瞳に灯ったのが、無性に綺麗で嬉しかった。

「よう、またびしょ濡れか?」
「今日はそれ程でもないっつーの」
「でも濡れてんな、今日はタオルは無いんだけど…」

まるで、俺が来た事を当然だとでも思っているように、動揺も警戒も驚愕も無くただただ当然の様にまたごそごそと鞄を漁るそいつ。しかし俺はそれを制して、空の…いや、珍しく空では無い鞄の中から、一枚の白い、丁寧に折り畳まれたタオルを出す。もちろん、昨日こいつに押し付けられた、あれだ。

「別にいい、それよりほら、これ」
「ん、ああ、サンキューな」

ずい、と押し付ければ、そいつはやはり当然のようにそれを受け取る。いや、受け取るという動作自体は当然成されるべき行為なのだけど、でもそうではなくて。

「…なあ、お前、よくここに来るのか?」
「ん?ああ。ここ、俺のお気に入りの店だから」

訝しみながら問いただす俺に視線を向けないまま、そいつは手にしていたタオルを粗雑な動作で鞄の中に突っ込む。相変わらず作りものみたいにどこもかしこも綺麗なくせして、そういうところは俺とあまり変わらない。
気負いなく返された答えに、ようやく俺は自分の後ろを振り返った。昨日は目の前の豪雨とこいつしか視界に入っていなかったが、よく見るとそこは一軒の古本屋らしい。ただ、お世辞にも繁盛しているとは言い難い、なんとか鳥が鳴いてるとか、そんな感じの店だ。こんな所が好きだとか、正直理解が出来ない。しかし先程文庫本を手にしていた所から鑑みるに、おそらく本が好きなのだろう。そこの所はどうも相容れそうにはないなと思ったが、やっぱり何故か妙にそいつが気になった。

「毎日?」
「いやー…毎日って訳じゃないな。気が向いたらだけど、多くても週に一回位」
「でも昨日もいたよな」
「あーまあな…。んー、なんて言うか、ほら、あれだ」

ぽつりぽつりと単調に浮かぶ疑問を零していると、不意に軽快だったそいつの返答が鈍った。む、と微かに顰められた気がしたそいつの眉間を覗き込もうとし、その前に横顔を見せていたそいつが俺に顔を向けると、いたずら好きの子供の様に、にやりと笑みを浮かべる。

「ここに来れば、またお前に会えるかと思ってさ」

ぱち、と一つまばたき。
辺りを包むのはいつの間にかまた勢いを増したらしい雨音だけとなり、呑み込みの悪い俺の頭に嫌でもその言葉の意味が浸透していく。もう一つまばたきをし、それが引き金となったかのようにじわじわと頬に熱が集まっていくのが自分でも分かった。

「…おい、あれだ、冗談だから、な?な?」
「…っ、うっせー、分かってるっつーの…」
「ぜってー分かってねーだろお前!んなに引くなよ!」
「だから分かってるって言ってるだろしつけーな!」
「いきなり怒んなよ!まだ二回しか言ってねーだろ!」

ぐるんと我ながら凄い勢いで顔を逸らした俺の行動を、どうやらそいつは「どん引きされた」と解釈したらしい。見せる事の出来ない顔の色を思い浮かべながら、それならそれでいいと思う。こいつの冗談だと言う事が滲み出ている言葉と違い、俺のこれは言い訳のしようが無い。
でもだって…仕方がないだろう。初めてだったのだから、こんな風にその言葉を告げられたのは。喧嘩を売りに来た不良共の「会いたかったぜ―男鹿。やっぱり、ここにいれば来ると思ってたんだよなー」とニタニタ気持ちの悪い笑みと共に告げられるそれとは、全く異なる色彩を灯した言葉。
むしろそれが、まるで親しい間柄で交わされる軽口の様な温度で授けられた事が、どうしようもなく嬉しかった。
熱が引くまでそんな応酬を繰り返し、しかしそれはしばらくすると打ち寄せられた波が勝手に引いて行くように、すっと雨音の中に霧散して消える。包み込むのはぽつぽつと奏でられる雨の歌と、心地のいい沈黙。それはどちらからともなく始めた、他愛の無い会話の中に組み込まれていく。

「お前、どこの学校通ってんの?」
「聖石矢魔ってとこ、知ってる?」
「知らん」
「だと思った。お前あれだろ?石矢魔のアバレオーガ」
「やっぱ知ってたのか」
「もちろん。お前、この辺りでは有名だもん」
「怖くねーのかよ」
「俺が?お前を?」
「…おう」
「別に、だって俺は何もされてねーし」
「ふーん…そういうもんか」
「そういうもんだ」

雨降ってるな、そうだな、程度の温度で紡がれる言葉の羅列。酷く冷めているが、そのぬるま湯程度の感覚が心地いい。
たいして思考を回すことなく、グダグダと灰色の空とそこから落ちる無色透明の糸を見つめながら、あの漫画を集めてるとか、あのゲームが面白いだとか、そんな取りとめの無い事ばかり。酷く穏やかで静かな時間を共有する内に、予想外に趣味が合う事を知った。
特に近所のフジノという店のコロッケが世界一うまいという意見が合致した時は、思わずお互い拳を握りあったくらいだ。ついでに互いの家が思っていたよりもずっと近い事も発覚した。
最高だよな!こう、ジャガイモがほくほくでさーと無邪気に、興奮したように語るそいつが嬉しくて堪らないと言うように笑う顔を見て、綺麗と言うより、これが可愛いってやつかなと同様に握り拳を作り激しく頷きながら考える。よく姉貴が近所の犬とか猫とか、一人でおつかい出来るもん的なあれを見ながら言っている、あれ。たぶんそんな感じだ。
この場に姉貴がいたらどん引き必須な事を真顔で考え、そうこうしている内に気づいたら雨は止んでいた。消えた雨音に名残惜しさを感じた気がしたが、敷き詰められた白の隙間から覗く清々しい青に何となく脱力し、俺は体を伸ばす。

「おー晴れたなー。梅雨ってより夏だな、夕立みてえ」
「さっきまでばっしゃばっしゃ降ってたくせによーむかつく。ぶっ飛ばしてやりてえ」
「お前、お天道様に喧嘩売る気かよ。バチ当たるぞ」
「俺は負けねえぜ!」
「そう言う問題じゃねーし」

最早互いに遠慮など微塵も無くなり、あけすけに交わされる会話の最中、ふとそいつが空を見上げ、嬉しそうな顔をした。何か面白いものでもあるのかと思いながらその瞳の向けられた先を追い、辿りついたのは雲間から地上に聳え立つ光の柱。まるでステージの局所を照らすスポットライトのようなそれを指差し、そいつはどこか得意気に口を開いた。

「知ってるか、男鹿。あれ『天使の梯子』って言うんだぞ」
「へー」
「綺麗だよな、すげえよな」

あーあそこから金髪で美人な天使のおねーさまが降りてきてくれないかなーなんて、言ってる事はこの上なく残念な筈なのに、にひひと笑うそいつの顔と髪は雨上がりの光に照らされ馬鹿みたいに綺麗で。

「…じゃあ、お前もあれを登って帰るのか?」

雨上がりのアスファルトの匂いに浮かされたようにぼーっとしながら、真顔でそう尋ねてから数秒後、ようやく我に返る。ぱちくりと、ただでさえ大きな瞳を見開き呆然とこちらを見つめてくる瞳から逃げるように顔を逸らし───。

「や、なんでもなっ…!」
「ははははっ!お前何馬鹿言ってんだよ!俺は天使じゃねーっての!ま、そりゃあ俺は天使と見紛う位美形かもしれないけどさー」
「お、おう」

さらりと気障ったらしい動作で御自慢らしいさらさらの銀髪を掻き上げるそいつの、完全に今の発言を冗談として片してくれたらしい様子に安堵し、思わずへどもどと肯定の言葉を返す。するとツッコミ待ちだったらしいそいつは微かに眉間に皺を寄せると、変な奴と呟いた。
こちらからしたらお前の方がよっぽど変な奴だよ、と言いたかったものの、今の発言をほじくり返されたらさすがに痛い。だいたい、あながち冗談でも無かっただなんて言ったら、それこそどん引きどころの騒ぎじゃないだろう。
あぶねーと胸を撫で下ろし、すると隣のそいつは前回と同様、鞄を持つと晴天の空の下に足を踏み出した。キラキラとかくれんぼの太陽に照らされた銀色の色彩にデジャブを感じ目を細め、そこでようやく、一番大事な事を思い出す。昨日からずっと、気になっていた事。

「な、なあ!」
「んーなんだよ?」
「お前、名前は!?」

既に数歩ばかり歩き出していたそいつの背中に声をかけると、くるりと不思議そうな顔が俺に向けられた。しっかりと届くように、と口の両側に手を当て、メガホンの様にして叫べば、うるさいなお前、と小さく顔を顰められたものの、すぐにその色づいた唇の端は緩み、囀る様な声が奏でられる。

「古市、古市貴之」
「ふ、ふるいち?」
「ああ、古市だ。よろしくな、男鹿辰巳」
「おう!」

ふるいち、ふるいちたかゆき。
やっと分かった。宝物の砂糖菓子のように舌の上で大切に転がせば、ほろほろと崩れ落ち俺の身体の中に溶けていくのを感じる。咀嚼し、呑み込み、ポンコツの脳味噌の中に確実に刻みこまれるように、零れ落ちてしまわないように、確実にインプットした。
そんな俺の様子に古市は笑い、そしてひょいと片手を上げると満足気に手を振る。

「んじゃ、俺帰るな!」
「あ、ちょっと待て!」
「まだなんかあるのかよ?」

軽やかに踏み出そうとしたその足に、まだ考えがまとまらない内に条件反射で制止をかけると、古市は律義に立ち止ってくれた。しかし何を言いたかったのか、自分でも分からず、あーだのうーだの言葉にならないうめき声をあげていて…その間も、古市は何だよ、と言いながらも急かすでもなく、ただ待っていてくれた。
そしてようやく、正答かは不明なものの解を見つけ出し、俺は先程より離れた古市に向かい一音一音はっきりと尋ねかける。

「また、ここに来るか!?」

一瞬、聞いてはいけなかったと躊躇した。たかが行きずりの関係なのに馴れ馴れしいと、そう思われたのかと。それ程に、古市の顔に一瞬だけ浮かんだ泣きそうな表情が、痛々しく瞳に映ったのだ。
しかしすぐにそれは、まるで白昼夢だったのかと思ってしまう程あっさりと消え、いつも通りの飄々とした笑みが浮かべられる。タン、とスニーカーに包まれた足が軽やかなステップを刻み、古市はにかっと笑うと、歩き出した。

「またな!」

と、俺の欲しかった答えを水溜りの煌めきの中に残して。









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