book1

□卯の花腐し
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「マジかよ…っ!!」

バケツを引っ繰り返した、などと言う最早テンプレ化した雨の度合いの比喩表現があるが、それを文字通り身を持って経験したのは、記憶にある限りではこれが初めての事だった。と言っても、そんな事を自分の姉に言えば、「三歩どころか身じろぎ一つで綺麗さっぱり忘れる鳥以下頭のくせに、馬鹿言ってるんじゃないわよ」とにべも無い答えが返ってくるのだろう。どこまで人を馬鹿にしてるんだか、あのクソ姉貴は。
現実逃避混じりに今現在ここにいない人と、先程から何か俺に恨みでもあるのではないかと疑いたくなる程に無遠慮に体を叩きつける雨と、つい今朝がた「今日は一日良いお天気で…」とにこやかに告げていたお天気お姉さん、誰に向けてと言う訳でもなく、悪態を吐く。しかし奴らが喧嘩を売ってきた訳でもあるまいし、暴力で解決すればスッキリする訳でもない。だから宛ても無い苛立ちを、とにかく一刻も早く家の門をくぐるため忙しなく動く足に集中させる。
だがそれを嘲笑うように、雨はより一層勢いを増して俺の頭上に降り注いできた。

「どわっ、ちくしょ…」

必死に年中無休でぺったんこな鞄を頭に載せ傘代わりの任を課そうとするものの、最早横殴りと言うか、これ下手したら四方八方から降ってきてるんじゃね?と思わせる水滴を防げる筈も無い。
ああもう、本当に、どうしてこういう日に限ってそこら辺を不良の二、三人でもうろついていないのか。そうすればちょっとそいつらをボコ…お願いして傘の二、三本拝借すれば事足りる話だと言うのに。実際、今までも大抵の自然災害をそんな感じでやり過ごしてきた。いや、というか正直な話つい先程まで「おい男鹿、ちょっと顔貸せや」とにこやかに楽しい遊びのお誘いをかけて下さった不良の皆様とやんちゃをしていた訳で、その時に傘位奪っておけば良かった。
ああくそ、つかえねーと理不尽な怒りを先程「全員土下座」させた奴らにぶつけつつ、大量の水分を含み、普段より重みを増した制服に対する舌打ちを堪え、水たまりを踏みつける。ばしゃ、と泥水がスラックスにかかり、踏んだり蹴ったり散々な結果だったのは言うまでもない。
くそ、ともう一度呟こうとし、しかしそれは唇の震えという逆位相の波により打ち消されてしまった。は、と疑問に思った瞬間、ようやく自分の身体が冷え切っている事を自覚しぶる、と身震いをする。最近すっかり蒸し暑くなってきたと思っていたが、梅雨入りし雨が降り出す夕方ともなれば、気温はめっきり下がる。しかも先程激しい運動をして汗をかいたばかり。自分で思っていた以上に、消耗していたらしい。
さすがにやべえと思いつつ、一際強く地面を蹴って…ふと自分の行く先に赤茶けたトタン屋根を見つけ、何も考えずに飛び込んだ。雨宿りなんて柄では無いと我ながら思うが、仕方ない。一先ず雨が弱まるのを待ち、仕切り直しだ。
喧嘩では滅多に味わう事の無い敗北感を感じていると、髪から頬や額を通り抜け、口に入ってくる生ぬるい変な味のする雨に酷い不快感を抱く。またイライラが胸の内にしとしとと降り注ぐのを感じた。ぐっしょりと重たい制服も、冷えた身体も何もかもが不愉快で、いっそ全て殴り飛ばして消す事が出来たらどれ程すっきりする事か。
真顔で危険思想を唱えつつ、俺はぎゅ、と制服の裾を力任せに絞る。ぼたぼたと落ちた水は俺の周囲に黒い円を描き、あっという間に屋根に守られていた筈のそこに水たまりを創り上げた。しかし着衣水泳をした並みに水を吸い付くした制服がその程度で水気を失う筈も無く、くっそ、キリがねーと本日何度目かすらも分からない悪態を付こうとして…。

「あの、大丈夫っすか?」
「ああ?」

突如かけられた声に苛立ちを丸ごと上乗せした声で返してから、はっとした。思わず喧嘩腰で返してしまったが、今の声に敵意は感じなかった。ただでさえ目つきが悪いだの手が早いだの言われ、周囲から遠巻きにされている自分の事だ。また不用意に怯えさせてしまったに違いない。
まあ、いつもの事だと半ば諦めながら、せいぜい善良な一般人の怯えた間抜け顔でも拝むかと顔を上げて…視界に飛び込んだ予想外の光景に思わず目を丸くする。
一瞬、雨が上がり太陽が雲間から顔を覗かせたのかと思った。そう錯覚してしまう程に眩い光が目を射し、しかしどちらかと言うと闇夜を照らす月の銀色に似た光に、いつの間にか夜になったのかと考え直す。だがそのどちらも事実には反していて、まばゆい光の根源は、紛れも無く一人の少年だった。
幼く見えるが、同い年くらい、だろうか。童顔、と言うよりは女顔、と評したくなる白い肌や大きな瞳、熟れた果実のような唇を持つ、とにかく整った顔をした人。常日頃姉貴がテレビや雑誌の中で気障なポーズをする男共に「かっこいー!」だの「イマイチねー」だのと勝手な評価を付けているのを理解できないと思いながら見ていたが、この時ばかりはその綺麗、という表現が珍しくすとんと胸の内に落ちた。
しかしそれだけなら対して驚く要因にはならなかっただろう。最も俺の瞳と心を奪い、意識を捕えていたもの。それは今までに見た事がない程鮮やかに輝く、銀色の髪だった。
俺のドスの聞いた声と悪い、と自負している目つきに頓着した様子も無く、サラリとその銀色を揺らしそいつは「どーこにあーるかなー」と謡う様に一人ごちながら鞄を漁る。咄嗟に怯えて逸らしたのか、とも思ったがそんな様子は全く無い。むしろそのどこか飄々とした様子を見ていると今まで散々自負していたそれらが酷く自意識過剰なものだったのでは無いかと思ってしまう程に。
そんな事を考え何故か一人気まずくなっていると、ようやくそいつはお目当ての物を見つけたらしい。「あった!」と無邪気に顔を輝かせると、俺と違い密度の高い鞄の中から白くふわふわしたものを取り出した。そして何か、と認識するよりも早く、それが俺の眼前に差し出されたのを見て、は、と頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。
するとそいつはにこり、と穏やかに笑いつつ、ずいと有無を言わさぬ様子で俺にそれを押し付けた。

「タオル、良かったら使います?大丈夫っすよ、汚れてないんで」
「は、よけーなお世話…」
「いいからいいから、見てるこっちが寒いんすよ」

咄嗟にいつもの調子で断ろうとし、しかしそいつは俺の頭の上にタオルらしいそれをぼすんと無理やり載せてきた。泣く子も黙る男鹿辰巳様にこんな事をする奴は、そこらの不良だったらぼこぼこにして例の如く「全員以下略」の刑に処するが、どこからどう見ても毛並みのいい一般人、よりも更に上等に見える生き物。
どうしたらいいのかと戸惑っている間にも、そいつは「ほらほら、いつまでもそのまんまじゃ風邪引きますよー」と言いながら動かない俺に焦れたのか、今度はタオルに包まれた俺の頭を鷲掴みぐしゃぐしゃと掻きまわしてきた。タオル越しに伝わる仄かな温もりと、洗剤の甘い花の香りに慄き、俺は反射的にかっと頬を朱に染めながらばしんとその手を振り払う。

「自分で出来る!!」
「ならさっさとやればいいのに」

若干そいつの声に険が含まれた気がして、振り払った力が強かったかもしれないと思ったが、相変わらずそいつは飄々とした様子を崩さず、「わーほんとにすごい雨」と、俺が隣に居る事も忘れてしまったかのような顔で空を見上げていた。
何だこいつ、という疑問と、変な奴、という感想の天秤が釣り合いバランスが取れ、色々ぐちゃぐちゃと渦巻いていた脳内が一旦落ち着く。元より処理能力が高くない頭は、奇異な見た目を持ち奇異な行動を取るそいつと先程までの苛立ちとでパンクしそうだったが、とりあえず考える事を放棄して目先の水滴を拭う事に集中した。ふわふわと柔軟剤のせいか酷く柔らかい白でおっかなびっくり水滴を拭い、時折嗅ぎ慣れない甘い香りにびくりと肩を揺らす。触れた事の無い感触や香りにいちいち目を瞠っていて…するとそいつが呆れたように俺を見た。

「そんなんで拭ける訳ねーだろ。お前ただでさえびしょびしょなのに」
「いや…でも濡れるだろ、これ」
「当たり前だろうが。そんなの承知で貸してんだ。もっとぐわーっといけ、ぐわーっと」

女みたいな容姿のくせに、言葉遣いが相当悪い。申し訳程度に付属していた敬語もいつの間にか取れていて、なんだこいつ、初対面のくせしてとむっとしつつも、それなら腹いせだと言わんばかりの勢いでがしがしと力任せに白いタオルで頭を拭いた。そしてぽんぽんと制服を叩き、途中で濡れていない側にタオルを折り返し、全身の水分を、少なくとも滴らなくなる程度には拭き取る。ふう、とようやく一心地付き、そう言えば寒くなくなったなと思いだした所でひょいと俺の手からタオルが奪われた。あ、それ相当濡れてるんだけど、と言おうとして、そのタオルの重みと俺の様子に満足気な笑みを浮かべるそいつに、何も言えなくなる。

「ん、よし。これでひとまず大丈夫だな」

ふーやれやれとまるで一仕事終えたおっさんみたいな声を出し、そいつはどれだけ用意がいいのか、近場のコンビニのビニール袋に濡れたタオルを突っ込む。あまりに無造作なその動作に、こちらが焦った。

「お、おい!」
「あ?なんだよ」
「…あーなんだ、それ」
「ん?」

反射的に唇から落とそうとした言葉が、予想以上に自分らしくなかったことに戸惑い、思わず口ごもる。おかしい、絶対におかしい。俺は天下の男鹿辰巳様で、そこいらの不良には姿を見ればそそくさと逃げられるか喧嘩を売られるかの二択で、一般人には恐れられるの一択で、唯一頭の上らない相手と言ったら姉と母親位のものだった筈なのに。それがなんでこんな、女みたいな男にペースを崩されまくってるんだ。







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