AO-EX

□紫陽花
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<紫陽花>

 どんよりした灰色の雲は重たげに空を覆い、窓を開けても閉塞感を感じる。
 生温い空気を入れ換えようと開けたけれど、湿気は溜まるばかりで失敗だったようだ。
 誰かに文句を言われる前にさっさと閉めた。
 教室は3限の授業が終わったばかりでざわついている。人の気配がわずらわしくて、机に伏せて寝たふりでもしようかと思ったけれど、ふりでも僕はあまり人前で寝るのが好きじゃない。
 本の字を追う気にもなれなくて、仕方なく席を立った。

 窓の外ではとうとう雨が降り始めた。無数の細い銀糸の軌跡を引いて、空から地上を縫い止める。

 ふと思い立って隣の教室をのぞいた。

 兄さんは珍しく教室に居た。
予報では夜から降ると言っていたから兄さんは傘を忘れた。濡れてまでどこかに行く気は無かったのだろう。

 彼は窓枠に肘を乗せ、外を眺めていた。
視線はぼんやり遠くをさ迷っている。校庭と見慣れた民家しかない外にわざわざ見るものもない。
 僕は注意を引かないよう、そっとクラスの空気に紛れ込んだ。

 クラスメイトはいつも遠巻きで、孤立している兄さんに僕以外に近寄る人はいない。
 だからあと三歩の距離まで寄って、ようやく兄さんはちらりと横目でこちらを見た。
「よお」
 振り返った兄さんは「兄」の顔になっていた。
 僕が横に並ぶと、彼はまた窓の方を向いて肘をついた。
 何を考えていたんだろう。僕が探るまえに、兄さんは穏やかな口調で言った。
「こんな雨の日も飛行機の飛んでる空の上は晴れてるんだろうな」
 兄さんはいつも僕の予想の斜め上をいく。
「雲の下には降りたくないだろうな」
「そうだね。むしろ気流が乱れて危ないしね。」
「中には早く家に帰りたい人もいるんだろうけど…」
「そうかもね。人の事情はそれぞれだからね」
 僕はいちいち、相槌を打って自分の存在を主張する。
 再びこっちを見た兄さんは笑って、「トイレ行くか」と、たわいもない話を打ち切った。
 最近、あまり長く喋ってはくれない。
たぶん、僕の評価が下がったりケンカにまきこんだりしたらいけないと思っている。
 なんだ、そんなこと。
苛立ちが腹の底に静かに溜まっていくのを、僕はいつもどおり気付かないふりをした。


 二人で廊下に出ても、兄さんはこっちに視線を向けたりはしなかった。

 何も、無視されているわけではないけれど。それでも悔しくて、
 僕の中にだって有る、抑えつけている熱情と衝動をぶつけてやりたいと思った。
 そこまで無理でもせめて強く強く抱きしめて、全身で存在をわからせてやりたい。
 急激に膨れ上がった熱いものが内から体を灼いた。胸を押さえてよろける。

 兄さんのせいで苦しいのに、恋のせいで苦しいのに、僕は何も行動に移すことはできない。

「雪男?!」
 あわてて兄さんが駆け寄って、僕を支えて覗き込んだ。
 真近で見る、優しい感情を帯びた青の瞳はやっぱり綺麗で、愛おしかった。
「大丈夫…」
 このまま、寄り掛かるふりをして抱き込んでしまおうか、一瞬場所を忘れて腕を上げたとき。廊下の向こうから呼ぶ声がした。
「あっ、コラ奥村! またテスト白紙だったぞ!」
 やべ、と兄さんは僕から離れて、
「中身はもう期待しとらんが、名前ぐらいはまともに書け」
 呆れた教師が僕の横に来たとき、兄さんはさっさと逃げていた。
「…また全部ひらがなで書いたのかな。僕はりん、て響きは好きだけど」
 教師に話し掛けられる前に、一礼して僕もその場を離れた。

 青い火を意味合いに持つ兄さんの燐という字は、らしくもあるが皮肉ともとれる。僕らの名前は誰が付けたのだろう。

 僕らは結局ほとんど、何も知らないのだった。


 未熟なくせに根を張りすぎた恋は、おろかだと思っても消すことなど出来なかった。
 むしろ、おとなに成りかけている身体が、より兄さんへの執着を確かなものにするほどだった。
 それでもこの執着が、いずれ失うかもしれない人を繋ぎ留めてくれたなら。
 そんなたよりない期待をする僕は滑稽だ。

 子供だから守られているのを知りつつ、未熟な自分が嫌いで早く大人になりたかった。


 昼休みと5限が終わり、雨足が少し落ち着いてきた頃、兄さんはふらりとどこかに消えていた。


 放課後までいてくれれば一緒に帰れたのに。
がっかりした気持ちは重く、家に向かう足を遅くした。兄さんはどこにいるのだろう。


 息苦しさから逃れたくて、街中よりも開けた場所に行きたかった。気が付くと、僕は河川敷を歩いていた。
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