バサラ

□忘却の贄
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 儚い華。その言葉で形容されるであろう女は、長い黒髪を風にゆるりとなびかせ、長い睫毛を伏せた。美しいと、誰もが目を見張るだろう。けれど、その女には誰一人として触れようとはしなかった。何故か…女を覆うどす黒い魔手が遮り、女の口からは、人のものとは到底思えぬ音がどろりと零れ出すからだ。
 この世の終わりを見てきたかの様に沈んだ瞳、それは唐突に、黄金色の絹糸を映した。否、絹糸ではなく黒の装束を纏った女の髪だ。そしてその柔らかな髪を、魔手は掴み切り取った。金の女は、その不快な感触に眉を寄せたが、抵抗も虚しく首を掴み上げられた。宙に浮かされた細い脚だけが、ゆらりゆらりと蠢く。

「××様××様××様」

 黒の女が、首を傾げながら呟いた。名は何故か雑音に遮られ分からないが、それでも呟き続けた。金の女は苦しみに顔を歪めながら、その様を見下した。

「愛する者を忘れるとはな」

 黒の女はそれにぴくりと反応すると、顔を黄金色の髪に近付けた。瞳の色は、相も変わらず暗い。

「…愛……愛?違うわ、違うの。これが愛」

 魔手で女の顔をゆるりと撫でながら、黒の女は先程切り取った絹糸を、赤い舌で弄びながら口に含んだ。

「市は市は、何も忘れてないわ」

 そう口が動きながら、女の喉を絹糸がぎゅるりと通った。喉元に残る異物感に、黒の女は恍惚の表情を浮かべた。自分の中に愛している者の一部が取り込まれる、もはや痛みさえ愛しい。
 けれど、金の女はそれを凍てついた目で見下ろし続けていた。何故、此方を見てくれないのだろう。その答えを探るように、魔手が女に絡みついた。柔らかい肌も、ふわりと香る優しい匂いも、全てが女の笑みを濃くさせた。ふふ、と目を細めた黒の女は、首を傾げながら問い掛けた。

「貴女なら、市を独りにしないよね?」

 そう言った女の顔が酷く悲痛で、哀れみをかけたいと思う程であったのだが、金の女は目を反らすと、魔手の向こうにある喉笛に刃を突き立てた。黒の女が嘆く間すらない程に、突然の事であった。

「お前を愛したのは、私ではない」

 嗚呼…嘘よ嘘なの。だって市は貴女だけを見てきた筈だから。愛してる、愛してる。愛してる…?――
 気付けば、金の女は魔手の中で目を閉じ、抵抗もなくぶらりと細い脚を垂らしていた。柔らかな肌には魔手が食い込み、香りは血の臭いへと姿を変えていた。女は顔をしかめると、するりと頬を撫でていた手を止めた。

「また、壊れたのね」

 女は、硝子細工のように凍てついたそれを地面へと放り投げた。先程飲み込んだ金の絹糸が、女の心の臓に絡まったかの様に、ぎしりと軋む。女は胸に手をあてながら、そっと目を伏せた。
(誰も助けてくれない。眠らせてもくれない)
いっそこのまま、心の臓を絞め殺してくれたらいいのに。



END
 

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